Facebookとブログには「サードプレイスとしての癒し」があるか

今は東京行きの(内閣府会議)新幹線の中。
MacBook Air11inch画面の、右Yahoo!ニュース個人、左Facebook。

■サードプレイスとワークライフバランス

この前、某男性向け総合雑誌から簡単な取材を受けた。
それは「サードプレイスとワークライフバランス」に関するもので、どうやらこのYahoo!ニュース個人のこの記事(新しいワークライフバランス)やこの記事(ブログはサードプレイス)を読んでいただいての依頼だったらしい。


僕としては、こうして波及効果が生まれるとは、ブロガー冥利に尽きるなあと思ったのだが、特に2本目の記事の主張点「ブログを書くこともサードプレイスになる」について、いまいち説明しきれなかったのが少し歯がゆかった。

ブログは基本的に1人で行なう行為だ。が、サードプレイスとは、1人で過ごす場ではない。
特定の「誰か」に会うことが目的ではなく、サードプレイスという「場」そのものに行くことが目的だということが、そのポイントなのだ。

「誰か」に会いにその場所に行く(あるいは帰る)のは、ファーストプレイス(家庭、この場合は「家族に会うために帰る」)やセカンドプレイス(職場、この場合は仕事相手に会うために行く)の特徴だ。

けれどもサードプレイスは、まずは「コミュニケーションの場」として機能する。
結果として誰かに会うかもしれないが(そして「誰か特定のあの人に会えるかもしれない」と期待しつつ行くことも確かであるが)、まずは「場」の存在が先行する。

たとえばこれまで僕にとってのサードプレイスだったもの〜大学時代の文芸部等〜は、明らかにそうだった。そこに行けば「誰か」(尊敬できる先輩や気の合う同級生)はいるかもしれない。けれども、先輩や同級生はバイト等でいないかもしれない。だが、とりあえずそこに行ってみる。
なぜなら、そこに行くと、まずは「安心できるコミュニケーション」があるから。安心してリラックスできる空間と人々がいるから。

■コミュニケーションの先行性

この場合の「人々」は特定の誰かではなく、いわば「他者」一般を指す。特定の誰かではないけれども、安心できる他者がいる場、サードプレイスとはそういうものであり、なにはともあれ、「コミュニケーション」の存在の先行が保証されている場だ。

ブログに戻ると、ブログとは基本的に1人で書くものだ。誰かとの共同作業ではない。しかし、ネット時代のブログという作業は、書いて終わりではなく、書いた後すぐにアップロードしてそれを読む人々にそのブログ記事を紹介することができるものだ。
言い換えると、読む(読んでいただける)人と、その記事を「シェア」できるものだ。

そういう意味では、現代のブログは1人で行なうだけのものではなく、瞬時のシェアもセットで含まれるものだから、ある意味「コミュニケーション」はブログという行為の中に含まれている。

■個人的返信の前にオープンなコミュニケーションの場がある

また、同じネット内の作業として、Facebook等のSNSを考えてみると、これはブログ以上に「コミュニケーション」が前提となっている。

短いコメントを書き、アップする。また、誰かのコメントに「いいね!」する。誰かのコメントを「シェア」する。誰かの紹介記事をシェアしていくなかでさらに自分なりのコメントを書く。

これら一連の行ないがすべて「コミュニケーション」を前提としている。特定の「誰か」に向けたコメントもあるが、それはメッセージ(メール)機能を使わない限りはオープンであり、誰かにコメントしながらもそれはすべての人が読むことができる。

僕は、メールやメーリングリストに慣れていたため、最初Facebookでのこうしたオープン性に警戒していた。が、慣れてくると、誰かへのコメントを装いつつも、Facebookでそのコメントを見る人すべてに「開かれている」このシステムが居心地よくなってきた。
誰かへの個人的返信でありながらも、そのクローズドな行為に「先行」するものとして、「Facebookというオープンなコミュニケーションの場」そのものがある。

「コミュニケーションの場」がまず先行し、誰かとの個人的交流はそのあとからついてくる。
そして、コミュニケーションの場は、そもそもオープンになっている。
これは、ブログ執筆後のアップロード〜シェアよりも、「コミュニケーションの先行性」が明確だ。そういう意味では、Facebookは明らかにサードプレイスだと言える。

■癒やしと傷つき

が、理由はまだ言語化できないものの、ブログはもちろんFacebookも、サードプレイスとしては効果が弱いように感じられる。
これは僕だけの感覚だろうか。そうであればたいした問題でもないのだが、やはり「リアルな場としてのサードプレイス」のほうが、ネットの中のサードプレイスよりも「リアル」だということが一般的なのだとすれば、それはなぜなんだろう。

僕は、そこにある種の「癒し」を加えて考えることがポイントとなるのでは、と思い始めた。
「コミュニケーションの先行性」としてサードプレイスはある。それは、リアル・サードプレイスもネット・サードプレイスも変わらない。が、リアル・サードプレイスには、ネット・サードプレイスに何かが加わっている。
それが、「癒し」要素ではないかということだ。

その「癒し」要素は、同時に「傷つき」可能性も秘めているようにも感じる。その「コミュニケーションの先行性」としてのリアル・サードプレイスは、時に癒しになるが、時に傷つき(トラウマ)にもなる。
もちろんFacebook(ネットでのコミュニケーション全般に拡大してもいい)でも傷つきはあるが、それはいつでも「撤退」できる。場そのものから逃走することができる。

けれども、リアル・サードプレイスで傷つきが生じた時、それはあとに残る。リアル空間で、お互いが気まずい思いをしながら再開することがありうる。
逆に、リアル・サードプレイスで「癒し」が生まれた時、それもあとに残る。こちらは、「またあの空間・あのコミュニケーション・あの人と出会いたい」という欲望を生む。

これは僕だけの感覚だろうか。もし、もう少し一般的に語れるものだとすれば、「簡単に回線を切れない」ということが、「コミュニケーション」を考えるときの重用な要素なのかもしれない。★




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