2015年6月25日木曜日

支援者、やめます

当連載では何度も書いてしまうが、僕は20代は独立系出版社(さいろ社)を友人と創設し、30代は「支援者」として活動した。
30代半ばで阪大の臨床哲学を学び、40代は大阪の老舗NPOで代表業を10年務めた。


大雑把に言って、編集者として10年、支援者として20年の時間を過ごした。
そして51才になり、また転機を迎えたような気がしている。


20代の10年間は、ある意味「社会」のために生きた。過重労働の看護婦(師)さん、HIVで亡くなっていった人、予防接種の被害者、MRSA(黄色ブドウ球菌)の感染者、脳死臓器移植に巻き込まれた人等、あげはじめたらキリがないが、編集長の松本君とともに、潜在化された医療問題を僕は僕なりに追求した。


自分なりの「理想のジャーナリズム」を追求したいという欲望はあった。つまりは、超「青い」けれども、「理想の社会」を目指していたのだ。


30代から40代の20年間は、20代に広げた大風呂敷とは別に、ミニマムな実践を徹底してきた。また、心理学やソーシャルワークのような王道の「科学」はあえて学ばず、世の中の基本概念を追求する「哲学」をあえて選んだ。
タイムリーに、鷲田先生が現実とコミットする哲学、つまりは「臨床哲学」を創設した時期だった。


ここ20年間の僕は、ある意味「他者」のために生きてきた。


20代は社会のため、30代と40代は他者のために生きてきて、やっと今、50代になって、本当に「自分」のために生きていこうかなと思っている。
そして、他者のために生きる「支援者」はそろそろ卒業してもいいかな、と。

もちろん、マネジメントは行なうけれども(この項つづく。あるいは「無風状態」でも)。★

2015年6月24日水曜日

大学で語るということ

今日(6/24)も京都精華大学で「こころと思想」の授業を行なった。

今日は、「他者の声」をみなさんはどう聞くかというお題を学生さんたちに与え(昨年までと違って夕方に変更した今季は学生の数も少なくなりアットホームで楽しい)、マニアックではあるがフロイト『ヒステリー研究』内に掲載されている知覚図というか認識図のようなものを説明しつつ、「こぼれ落ちる他者の声」を解説した。

こう書くと何のことかわけわからないだろうが、僕としては今持っている知識を総動員しながら、どうしても気になる「他者の声」に言及し続けた。

うれしいもので、全部で30人もいないものの、学生さんは熱心に聞いてくれている。
たぶん、不登校や思春期や『ポーの一族』(萩尾望都のマンガ)や、その他若い人たちが食い付くようなタームを散りばめて語っているためだろうが、基本的に「何かを求めている若者」がそこにいると僕は解釈しており、それに向けて応答しているつもりだ。

今年は去年まで用意していた資料も用意せず、ひたすら僕の語りだけで勝負している。たぶん3年目なので今年がラストなのと、3年目で実験したいため等、さまざまな理由はあるが、非常に刺激的な体験だ。

資料なしで80分ほど連続で語ることができること、そして、その80分のマニアックな語りを一生懸命聞いてくれる学生さんが目の前にいること、これらがたいへん幸福だ。

今年でおそらくラストの講義だろうが(非常勤講師は3年が節目)、今年、こういう形式に至ることができてよかった。何かを求める若者の姿は非常に美しく、そこに少しでも関わることができて、支援者ではない楽しみに目覚めてしまった。
いや、教育者になりたいわけではないが。★

2015年6月19日金曜日

折り合わなくなった

前回の続きでもあるのだが、50才を過ぎて何かを「諦めた」と同時に、何かが吹っ切れてしまったところもある。


これでも僕は、多くのことにずいぶん「折り合い」をつけて生きてきた。たとえば、日常的慣習や規範、仕事における人間関係の調整、原稿仕事におけるテーマの選び方や語り方など。


日常の日本人的慣習・規範・ルールは、そのすべてから自由になることは難しい。が、窮屈で仕方がないものはできるだけ参加しない。それでも、どんなにそこからすり抜けようとしても、それらはついてくる。


仕事における人間関係の調整も、それを行なうと仕事内での不要な行き違いを避けられるため、最低限のことはいまだにしてしまう。
また、原稿仕事(今はネット中心だが)についても、かたちとして後々まで残る分野のため、ギリギリのテーマや表現は避ける。


これら一つひとつが、51才になり、日々バカバカしくなっている。
だからといってすべてを投げ出すわけではないが、そこに囚われている若い人たちや、僕より年上だけれどもきちんと折り合って生きているように見える先輩方が、僕からはどうも「遠い」。


嫌いとかそんなではなく、なんというか、(僕にとっては、です)魅力がない。
やはり魅力があるのは、そのラインを飛び出そうでもがく人たち。
おもしろいことに、そのラインから完全に抜け出た人々は(あまり知らないが)、実際に会った時の素晴らしい印象とは反比例するように、突き抜けすぎて噛み合わないこともある。


そんな、「突き抜けすぎ」に、自分が日々近づいている実感はある。★






2015年6月17日水曜日

50才という節目

このシークレットブログ(アクセス200ほど)をチェックする人のほとんどは僕より年下だと思う。年下ということは40代以下ということであり、「50才の節目」を実感としてわからないということだ。

上から目線の話でもなく、自分が50〜51才になってみて感じることは、何かの節目が訪れたということだ。

これは、46才で脳出血になり生き残ったとか(僕は実際生き残ったのだが)、その手のサバイバーネタではない。

50才は、たぶん「死」への節目だと思う。50才の人々が犯してしまういろいろな犯罪ニュースを見るたびに、高校生の頃の僕は、「なんで50才にもなってこんな犯罪をやるんだろう」と謎だったのだが、今はわかる。

それは、まずは人生に諦めるということだ。

「それ」というのは、50才ということ。50才は我々にとってある種の諦念だ。それはある種の安定や平和や愛に結びつくこともあるし(家族愛等)、なにがしかの犯罪に向かうこともある。

人生のエネルギー切れ寸前ではあるが、人生すべてを諦めきってもいない、そんな微妙なお年ごろということだ。

ネット発信という文明を人間が手に入れたのは最近のこと。これまでは一部の文学者やエッセイストのみが綴っていた「50才の憂鬱」を、多くの人びとが発信するだろう。
もうそれは始まっていると思う。★


2015年6月16日火曜日

バーンアウトがやってきた

僕は20代は独立系出版社(さいろ社)、30代前半は個人で(不登校)訪問支援、30代半ばに阪大の大学院で臨床哲学を学びつつ、子ども若者支援NPO(淡路プラッツ)で代表を10年務めた。

46才の夏、子ども若者支援に関して、民間支援施設中心で「学会」をつくろうと思いつき、あちこちに声をかけて「これはいける!!」と思い興奮した日の昼、脳出血になってしまった。

幸い、職場の近くに淀川キリスト教病院があり、緊急搬送されて手術、1週間記憶なく過ごし(記憶はないがその1週間の間も病棟で語りまくっていたそうだ)、やがて目覚めた。

そして医師に、
「本当に生かされた命だから、より社会のためにがんばってください」と
いきなり励まされた。

僕なりにその覚醒は奇跡的なことだと自覚していたから、そんな奇跡的覚醒時に「社会のためにがんばれ」と医者から言われるとは思っていなかったが、なぜかその言葉はストンと落ちた。

だからその後、いろいろあったものの、一番「底」の理由では、「生かされた命」を完全燃焼するためにドーナツトークをつくった。
僕はたぶんシャイなので表面的にはいろいろ顰蹙をかったかもしれない独立だろうが、今になってみると、「完全燃焼」の一環だと思う。

それが、予定では5年くらいかかるはずだった「府内の高校に居場所をたくさんつくる」という目標が、独立2年で達成された(20ヶ所)。

それと同時に、なぜか支援者として燃え尽きた感が生じている。僕でなくても、子ども若者支援はできるという、まあいわゆる「バーンアウト」ですね。

さいろ社時代、多くの看護師さんたちにバーンアウトに関するインタビューを行なってきたが、やっぱり自分にも訪れたのだ(つづく)。★