2012年3月15日木曜日

「NPOコーポレート哲学」は可能か①〜臨床哲学の経営への具体的応用〜

昨日僕は48才になった。確かにこの年になると誕生日にはまったく興味ないが、Facebookの「友だち」のみなさんからおめでとうメッセージをたくさんいただくと、何となくうれしい気分になってくるから不思議だ。
あと、四国の母親と僕は誕生日が同じで、しかもそれがホワイトデーの3月14日だから、その点もだいぶ気に入っている。病気後、僕は母親との時間を大切にしようと思っており、4月からは月何日かは在宅勤務ならぬ「実家勤務」を実行しようと思っているほどだ。

「病気」と書いたが、 僕が脳出血で倒れてからはや1年半たった(詳しくは右欄「200号を転換点として」参照)。当ブログを開始してからも1年が過ぎている。
しばらくはこのブログが僕にとっての最大の仕事だったから、アクセス数をあげようと思ってさまざまな工夫(「橋下知事」や「スティーブ・ジョブズ」のような話題の言葉をタイトルにしたり、立て続けに書評したり)をしたが、この前、なぜかヤフーニュースとリンクされ瞬間風速で1日4000アクセスまでいったあとは気分的にも落ち着いてしまい、アクセス数にもこだわらなくなった。

毎日の仕事がだいぶ忙しくなってきたこともあるが、第一は、僕の身体が本当に「健康」になってきたことで、頭の中がだいぶすっきりしてきたこともある。
そうなると(つまり健康になり頭が冴え始めると)、元々の僕が現れ始めた。
でも心配しないでくださいね。食生活や働きすぎにはかなり気をつけているので、おそらく10年あるいは20年程度はこのままの生活が続くような気がしている。
頭の中が冴え始めたということはつまり、本格的に「哲学スイッチ」が入り始めたということだ。

その哲学スイッチのターゲットはいま、「NPO経営」に向かっている。
思い起こせば15年前、日々の青少年への支援仕事に行き詰まりを感じ、臨床心理学でもない、ソーシャルワークでもない、かなり迷ったが精神分析でもない、とさまよった挙句たどり着いたのが、大阪大学「臨床哲学」だった。

当時はまだ鷲田清一先生が現場で指導されていて、そこに中岡成文先生や若き本間直樹先生ががっちり脇を固めているという、僕にとっては最強布陣の教師陣だった。
加えて、臨床哲学黎明期の当時は社会人院生が半分以上を占めていて、医療や教育の最前線で奮闘する「学生」さんたちのエネルギッシュな議論を毎週聞くことができた。

そのような議論に参加したり、20代の頃からずっと気になりながらも途中で投げていたポストモダン哲学(ドゥルーズやフーコー) を読む読書会に参加したり、フロイトやラカンを哲学的に吟味・精査する小規模勉強会に参加したりするなかで、僕の現場での迷いは徐々に溶けていった。
何よりも、ドゥルーズやフロイトの精読(社会人院生の僕なりには精一杯がんばった)をもとに、PTSDの仕組みを解明しようと奮闘した修士論文の作業を通して、ひとつの区切りを迎えることができた。

修論に熱中しすぎて博士課程申込書類提出を忘れてしまったくらいだから(当時はショックだったけれども、今から思うと現場に早く完全復帰できてよかった)、あの作業は僕の人生の中では最も勉強した1年なのであった。

そんな、30代半ばからの遅れてきた哲学マニアの僕が、大きな病気のあと青少年支援の現場に復帰し、NPO経営の仕事を主にするようになってから1年半がたった。
この間、読んだ本の半分以上は経営関係のものだった。基本的に病気療養生活だったからトータルでも30冊くらいしか読んでいないものの、昔、心理学の本を読んでいて感じた「違和感」を経営学にも感じるようになっている(まあ実は初めから抱いていたのだが)。

心理学ではたとえば「共感」や「受容」は、当たり前の基本的な言葉として解説なしに使われる。僕はそもそも、このような言語群が自明の言葉として流通する世界に疑問を持った。
同じように経営学の一般的テキストには、たとえば「目標」「評価」「組織」「リーダーシップ」「戦略」等が自明の基本的言葉として使われる。僕は、これらの言葉が実はいちいちひっかかる。

経営学は何よりも実践の学問であり、要は「カネを稼いでなんぼ」のための「理屈」なのだから、自明の言葉にはこだわらない世界であることは百も承知の上で、このようなことを書いている。

僕が所属する世界はNPO経営の世界だ。NPO経営にはおそらく、「一般企業と同じスタイルを目指す経営」と、「NPOならではの新しいかたちを目指す経営」の二種類があるだろう。
僕は、せっかくのNPOなのだから、後者の「NPOならではの新しいかたち」を模索していきたい。
そのために、 「NPOコーポレート哲学」があると思う(さっき思いついた造語です……)。これから、当ブログで(もちろん毎回ではないが)展開していきたい。働き過ぎに気をつけながら、ね。★


2012年3月10日土曜日

日本での「ソーシャルシフト」〜『ソーシャルシフト』斉藤徹/日経新聞出版

この本でいう「ソーシャル」は、ソーシャルメディアのソーシャルのことで、具体的にはFacebookの拡大に伴う「シェア(情報共有)」の文化を指す。
ソーシャルメディアを活用した口コミ情報が今以上に威力を持ち、発信側からの一方的な情報コントロールはできなくなる。その(口コミ等の)市民パワーを意識するため、発信側(主として企業)には、社会貢献等の「誠実さ」が求められる。

アメリカではFacebookの拡大とともにこのような「ソーシャルシフト」が起こっているのだろうが、日本ではもうひとつの「ソーシャルシフト」が起こっていると僕は思う。
それは当然、東日本大震災後に訪れた、「ソーシャル」を尊重する雰囲気・空気・エートスを指す。このソーシャルは「絆」という言葉でも表され、またNPOを中心とした「社会貢献」が注目されていることにもつながる。
企業レベルでは、たとえばトヨタが「アクア」のこんなホームページ(http://aquafes.jp/top/)を提供していることにもつながる。

東日本大震災以降、日本では、ソーシャルという言葉を中心に、ソーシャルメディア、社会貢献、ボランティア、情報のオープン化等が速いスピードで展開されている。
欧米(あるいは世界全体)が主としてソーシャルメディアを中心に展開されている「ソーシャル」ムーブメントに対し、日本では時代の転換点のキーワードとして「ソーシャル」はあり、その現実化のひとつとして「ソーシャルメディア」や「社会貢献」はある。

NPOの発展(たとえば認定NPO等)も、そうしたパラダイムシフトとしてのソーシャル化の流れのひとつに位置づけられる。
1990年前後にひとつのピークを迎えた「個人/ポストモダン/バブル/高度資本主義」等の意味の連鎖はすっかり影を潜め、現在は「ソーシャル」を核とした一連の意味連鎖(社会貢献、オープン、フリー、NPO等)が時代の「空気」をかたちづくっているように僕には感じられる。

ただ、「社会」や「ソーシャル」には、本来さまざまな意味が含まれる。
人によっては、「持続可能な」社会や「社会民主主義の」社会等を思い起こすだろう。現在用いられているソーシャルは、どちらかというとこのような「持続可能」的な比較的暖かい意味を指していると思う。

僕は、社会というと時に「強欲」とまで形容される資本主義社会のことをすぐにイメージする。またドゥルーズが『ミルプラトー』や『アンチオイディプス』などで描いた「戦争機会」「リゾーム」「器官なき身体」等の錯綜・複合するコミュニケーション母体のようなものをイメージする人もいるだろう。

現在日本で展開する「ソーシャル」は、かなり暖かみをもったイメージをともなう。当分はそうしたイメージが主流だろうが、そのイメージは常に「強欲」や「複合」などの暴走的・暴力的内実も持つ。
その意味で、日本での「ソーシャル」がどこに実際にシフトすることになるのか、慎重に見守りたい。★

2012年3月6日火曜日

池田信夫さんだったらもっと別のやり方ができるだろうに



今日の午前中は香川県の実家で過ごし、午後から大阪へ移動する。
1年半前の大病(脳出血)をきっかけに、実家での「在宅勤務」(月4日ほど)を4月から取り入れる予定で、いまはその根回し&実験中。いまの僕の立場だと、iPhoneとMacbookairとSkypeがあれば問題なく移行できると思っているのだが、それも4月末になればわかるだろう。

ところで昨日はブログも書かず、下のようなショートエッセイをFacebookに書いてみた。23才でさいろ社(http://www.sairosha.com/index.html)という小出版社を友人の松本君と立ち上げて以来、47才のいま(NPO代表&支援者になってしまったが)にいたるまで、僕は一貫してこんな思いを抱き続けている。


池田信夫さんのブログを見てたら、またこんなある意味「正論」が。
「エネルギー政策を語るビルゲイツ」
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51777428.html
このブログには4,600人が「いいね!」してるが、これを「日本人も変わってきたなあ」とみるか、「なんでこんなにも『議論できる』人がいるというのに、日本は日本のままなのか」と嘆くか。僕は後者。
池田さんは丸山真男の本をしきりに書評していたりして、そうした「タコツボ日本文化/エートス」をことさら意識しているというのに、書くものはいつもこうしてとんがっている。
とんがってる人を支持してるが4,600人もいて「これで日本は変わっていくのかなあ」(脱原発の是非ではなく、「議論の積み重ねで根本的な制度/大システムを変えていくことが我が国では可能か」ということです)と思わせながら、実はたった4,600人だったりする。
だから池田さんみたいな人にはこんな「直球」議論じゃなくて、もっと戦略的に日本を変えていくワザを期待しているんだけど。やっぱ、めんどくさいのかな。★


このように、タコツボ社会/過剰なコンセンサス社会/大きな決定ができない社会の世界代表である日本に対して、「決定できる国にしよう」と言ってきたのが、ここ50年の日本のあり方だった。
論者レベルでは丸山真男から池田信夫まで(というか論者すべて)、経営レベルでは盛田昭夫から柳井正まで(というか日本の先端企業経営者のすべて)、市民レベルではこのようなことに関心がある僕のような末端市民も含むほぼすべてがあちこちで文句を言っている。

僕にとっていちばん身近なところでは、さっき実家の70才の母親と長い朝食を終えたのだが、朝から彼女も「決定できない我が国」を嘆いていた。
僕も一緒になって嘆きまくったので二人とも血圧が上がり(母も6年前に同じ病気で倒れている→これまた奇跡的に後遺症がほとんどない)、これは脳血管的にやばいと思ったので、僕はこうして一人静かにパソコンに向かうことにしたのだった。

このように、至極まっとうなことをあらゆる人々があらゆるレベルで嘆き告発してきたというのに変わらない(黒船と敗戦でしか「大決定」できない)国、それが我が国であって、僕にとってはこれが本当に不思議でならない。
僕が記憶している範囲では、ここ35年でまともに議論して決定できたのは「消費税導入」だけなのではないだろうか(あれもよく考えれば竹下流「根回し」かな)。その他、介護保険にしろPKOにしろ小選挙区制度にしろ、全部、「全体的にそんな雰囲気/空気になってきたので何となくそうしよう/そうなった」システム改革だったような気がする。

これがまさに「空気尊重社会」ということなのだろうが、その割にはいつも「決定できる国にしよう」という反対の提案がなされている。
僕などは、自分が「日本語が異常に上手な外国人」なのだと思って生きているので、今回のようなこともたまには書くものの、基本的には「過剰なコンセンサス社会」ニッポンに対して諦めている。

だから、たとえば、4月末からの月3日の在宅勤務導入でも、いまから地味に根回ししたりする。たぶん、丸山真男も盛田昭夫も小沢一郎も柳井正も(男ばかりだなあ)、僕とは全然規模が違うものの、このように「言うことは言うけど、実際はコンセンサスにも目配りする」みたいに振舞ってきたのではないだろうか。

Facebookにも書いたように、池田信夫さんみたいなある意味「覚悟を決めた人」で同時にすごく頭のいい人は、池田ブログにあるような直球タコツボ社会批判をしてほしくない。
もっと戦略的な、過剰なコンセンサス社会ニッポンを切り崩す見本を見せてほしい。

デリダの「脱構築」ではないが、「(多数派の)相手の懐に飛び込み、相手自身が持つ矛盾のキーワードを探り出し、それを相手の文脈の中で暴いていく」方法みたいなものはないだろうか。

ここまで書いてわかった。あ、そうか、脱構築の手法を使えばいいのか。それだったら僕でもできそう。

いまはたぶん、脱構築に使える象徴的言語/矛盾したキーワードは「ソーシャル」だと思う。★(池田さん写真はブログからhttp://ikedanobuo.livedoor.biz/

2012年3月2日金曜日

青少年支援の「ブルーオーシャン」〜“潜在性”へのアプローチ〜



そういえば21日のイベント(ニート800人集会http://osaka1gan.jp/news/25.html)の出演体験レポートもしないまま、先月から今月にかけて怒涛の10日間が過ぎた。
ああ、忙しいってこういうことだったなあと思いながら僕は何とかすべてこなしたのだが、そうしてのんびりしていると、いきなり当ブログの閲覧数が4.,000を超えた日があった。

それは結局、ヤフーニュース経済版の大阪特集の中に当ブログがなぜかリンクされたことが原因だったのだが、いつもは多くて200くらいの閲覧数が、あれよあれよという間に4,000まで行ったのだから最初は訳がわからなかった(ここにヤフーのバックナンバーがあります→http://backnumber.dailynews.yahoo.co.jp/?m=7622656&e=retail)。

取り上げられたブログ記事も、橋下市長の本の書評にパリと大阪の大きさをからませたもの(http://toroo4ever.blogspot.com/2012/01/blog-post_09.html)だったから、いやー、世の中何がきっかけになるかわかりませんねー。

翌日からは見事にいつもの閲覧ペースに戻ったから、寂しくもありホッとした感もあるものの、このネット社会では、何かのきっかけで眠っている「潜在層」とネットワークできる可能性があるんだとまざまざと見せつけられたのであった。

この話題とは直接結びつかないものの、この頃僕は、前にもまして「青少年支援分野の『ブルーオーシャン(未開拓市場)』はどこにあるんだろうと考えている。
ブルーオーシャンは流行りの経営学用語らしく、当ブログの読者は青少年自立支援の現場に関わる人達が大半だと思うので、「市場」といったドライな語感には反感を抱かれるかもしれない(関心ある方は『「ブルーオーシャン戦略」がわかる本』中野明/秀和システム、等をご参照を)。

ブルーオーシャンは二種類あり、それは①まったく新しい市場の創造、②市場の「境界」を引き直すであり、考案者のキムらは②を主としてブルーオーシャン戦略だとする(たとえばスターバックスのような新しいコーヒーショップの「創造」)。

僕は、青少年支援においては、①の困難なブルーオーシャンのほうが有効性があると思っている。わざわざ新しく境界線を引いて市場を再創造しなくとも、青少年自立支援の分野には「手のつけられていない市場=第一の意味でのブルーオーシャン」がそのまま横たわっているからだ。

そうした「①ブルーオーシャン層」(当ブログ・スモールステップ表の①〜③〜スモールステップ支援スケールVer.1.0http://toroo4ever.blogspot.com/2011/12/ver10.html)は数十万人はいると思うが、「年金未払い」フリーターとその家族のニーズまで含めると、もしかすると数百万単位のブルーオーシャンがそこにはあるかもしれない。
ただ、プラッツとしては、真の意味での「潜在的な存在」=支援者とタッチしていないひきこもり層に焦点を絞り込みたいと思っている。年金未払いフリーター(といってもそれはニート層と相当クロスしている)の問題は既存の支援システムの拡大でもカバーできると思う。

「①ブルーオーシャン層」にアウトリーチしていくことは、ひきこもり問題の最大の課題の1つとして昔から位置づけられており、まずは「訪問活動」だろうということで多くの人がチャレンジしてきた。
僕も10年以上取り組んできたが、訪問とその先に続く支援機関といった一連の「アウトリーチシステム」の一環として訪問活動を位置づけないと、なかなか社会参加まで導くのは難しい。

そうしたアウトリーチシステム構築の中に、僕はやはり「保護者」をどう巻き込んでいくかがポイントだと思う。
その際の手法として、たとえば「カフェ」は有効だと思えてきた。哲学カフェやワールドカフェのはやりの流れに乗るように、プラッツも「おやカフェ」を開いてみようかな。

大規模な潜在的市場の存在と、その市場自身から「(潜在的ではあるが)ニーズ」があるという点で、やはりここに絞り込みたい。そのことで、プラッツ自身が、過酷なレッドオーシャン(たとえば地域若者サポートステーションの奪い合い等)から抜け出て、澄み切ったブルーオーシャンに行くことができるかもしれない。★

2012年2月25日土曜日

アップルの組織へ〜ツリー型からフラット型へ

 おっと、しまった、今週はプレゼンやらいろいろあって、もう土曜日だ。身体が健康になるにつれ、ブログが週一更新になってきた。
 でも、知人たちが言うには、ブログ更新は週一程度がいいらしい。週一程度でひとつのテーマについて少し掘り下げて書くことが効果的だという。ブログというものは、テーマをあまり掘り下げると、ネットという媒体では人は集中しにくいため最後まで読んでくれないのだそうだ。

 改行も頻繁に行ない、いくつかの段落ごとに一行あけ、中身の掘り下げ度もほどほどに1200字程度、更新も週一で、これが人気ブログの秘訣だとか。
 同じ文章でも、掘り下げ度や濃密度でははるかに本物の書籍のほうが濃い。僕みたいに昔の記者時代の癖が治らずブログに慣れていない人は、活字仕事時代のノリであまり改行せずぐいぐい掘り下げてしまうから、よほどの有名人でない限りはなかなか読んでもらえないブログになってしまう。

 そんなわけで今回は、NPO経営論の中での「組織」づくりについて書いてみよう。組織といっても、「もしドラ」みたいな組織行動/組織コミュニケーション論ではなく、ここでは組織体系/システム論のことだ。

 僕はバックボーンが哲学で、特にドゥルーズ好きのポストモダニストだったりするから、ドゥルーズ(とガタリ)が提唱する「リゾーム型」組織を本来ならば追求したい。
 けれども、リゾーム型はあまりにラディカルで現実の組織では使えない(リゾーム型とは、植物の茎のようにあちこちで交差するコミュニケーションをなかば放ったらかしにするかたち、だと思う)。
 だから僕が考えたのは、「フラット型」という組織体系だった。フラット型は代表的な人/機関を中心に、たとえば「人事」「財務」という機能/担当が円を描くようにくっついていく。
 これと対称的なのがいわゆる「ツリー型」で、クリスマスツリーのごとくトップのスター(社長、代表、監督……)から下にいくつも控える階層に向けて指令が流れていく組織だ。現代日本のほとんど組織がまだこの体系だという。

 それぞれのセクション(人事、財務、戦略、事業管理、渉外、企画、広報、ブランド戦略、総務、研修等々に分かれる)をさらに「主担」と「副担」に分かれて受け持つ。真ん中の代表と各セクション担当者のふたりが定期的に会議を開き、議題を提供、決定していく。

 これで来年のプラッツは決定! と思いつつぶらぶら本屋で雑誌を立ち読みしていたら、なんと、フラット型をワールドワイドにとっくに実践していた企業があった。
 それが、今回のタイトルにも書いた、あのアップルだった(アップルの各セクションはまさにワールドワイドだが)。亡きスティーブ・ジョブズは晩年の数年間はこの組織づくりに心血を注いだらしい。図(『Mac Fan3月号より』)のように、いくつかのセクション/機能を代表する上級副社長が真ん中のジョブズCEOを囲んでいる(ジョブズのすぐ上にある名前が今回CEOに就任したディム・クック)。

 さすがジョブズ、亡くなってからも僕に教えてくれるんだ。
 
 そんなわけでネタ元はアップルかもしれないが、フラット型は単純だけれども、かなり魅力的なかたちだ。
 この組織形態だと代表の決定権が過重になるという危険性があるのかもしれないが、たとえば予算いくらまでは各担当に任せるという具合にお金の額で判断と責任のラインを線引きすれば、細かい判断は各担当が行なうことになり、同時に「決定」の訓練にもなる(アップルではなくプラッツみたいな小さな組織の話です)。
 最終決定は代表が背負うものの、フラット型は各レベルごとの責任を意識させることができる。責任とは哲学的には、「他者との関係のあり方」をそれぞれの局面で負うことでもある。責任ないところには他者とのリアルな関係の構築はできないことから、決定/判断/責任をどのポジションの人がどのレベルまで負うのかをシステムとして決めておくことは重要だ。

 おっと、ブログとしては量的に書きすぎてしまったかな。
 でもまあ、今NPOを立ち上げ、少し経営が軌道に乗り始め、規模が拡大してくると(スタッフが3人→5人→8人といったわずかな人数の変化でも「組織」は違う運営方式を求める)、それなりにコーポレートを考える必要がある。
 コーポレートは、大きく分けて「組織」と「戦略」に分かれ、組織はさらに「コミュニケーション」と「システム」に分かれる。
 今回は後者の組織システムの話をしたのだが、規模の変化に伴う組織運営に悩む方々にとって、こうした議論が少しでも役に立てればうれしいです。★