2016年8月23日火曜日

「べき」のマーケティング〜べきばっかりでウンザリ

どうも5年くらい前から鼻について仕方ないのだが、あちこちのエッセイや記事のタイトルに「〜すべき◯◯」みたいな感じでさらっと主張しているものが目立つ。

まあそのうちなくなるだろうと流していたのだが、いつまでたってもその手のタイトルは撲滅されず、いろんな単語をくっつけていつまでも残っている。

たとえば今日のFacebookタイムラインで見ただけでも、「プログラミングは小学生からすべき」とか、その他「〜すべき」がたくさん出てくる。
その中身はどうでもいいのだが、「べき」の押し付け感が僕にはうっとおしい。

べきは、言い換えると規範のことで、「学校に行くべき」とか「仕事をすべき」とか、そうした典型的規範を中心として、単なる広告コピーや本のタイトルなんかも含めると、もう我々の社会はそんなのばかりだ。

せめてエッセイとかタイトルくらいはもっと自由な適当なものであってほしいのだが、油断したら「べき」が目に入ってくる。

それどころか、「べきのマーケティング」とでも言っていいほど、「べき」は売れるあるいはヒットするのかもしれない。

べきを何気ないことばにくっつけると、新規な感じになり、人々の注目を集める。
そんな社会の雰囲気になったようだ。

僕自身は、不登校支援やひきこもり支援の中で、登校規範や仕事規範と長年にわたって向き合ってきたので、すっかり脱力してしまう。
「べき」が売れるって、なんだかなあ。★

2016年8月13日土曜日

石の魂


■最終的には直感で決める

50才を過ぎてどんどんすべてが楽になってきているこの頃、「ゴーストという他者からの呼び声に突き動かされる」という、哲学者やアニメ監督のメッセージが素直にわかるようになってきた。

僕は、何かを「決定」する際、何かを始めるとき、最終的には直感で決めている。
その直感は、自分の内面から湧き出ているようでいて外から入り込んでくるようにも思え、哲学や精神分析で「他者」とか「不気味なもの」ととりあえず名付けられているものに近いんだろうな、と思っている。

『攻殻機動隊』の決めゼリフ「ゴーストのささやき」も同じようなもので、あれは最初は、主人公の草薙素子が広大なネット世界を通して伝わってくるさまざまなメッセージから感じ取るものの総称だったはずだが、それは同時に「決定」時の神秘的なメカニズムの要因とも受け取れる場面で現れた。

■プラスαなもの

A little voices urging me My Ghost.

ゴーストが私にささやくを英語にするとこんな感じになるらしいが、このゴーストは、「魂」でもあるし他者からの呼び声でもある。
魂の入っていない存在(アンドロイド)を攻殻機動隊では「ゴーストのない」などと表現され、ゴーストが入った状態がヒトになる。

攻殻機動隊ではネット世界に草薙素子は存在しており、そこから現実の「義体」に草薙素子の「データ体」のようなものが入り込むと、その義体は草薙素子のものとして動き始める。

それはデータ体と書くと何かが違ってくる。データの集積が草薙素子ではないし、かといって物理的身体は義体だからデータ体が入り込むまでは黙って座り込んでいる。

データの集積と、草薙素子という人格の区別は、「ゴースト=魂」としか表現できないプラスαなものがあるかどうか、のようだ。

この、魂と身体を明確に区別する発想も古いが(魂は皮膚のすべてに、身体のあらゆる場面に宿り、それら身体中に散らばる魂こそがその人そのものである、というのが哲学の最近の常識だと思う)、妙に説得力があるのもこの「ゴースト」ということばがもつ響きと意味だ。

■時空を超えて

ゴーストは他者の総称でもある。他者は、時間や空間に縛られず、生身の肉体を有する人間存在だけを意味しもしない。

石ころのような無機物も他者であり、韓国や日本の言い伝えにもあるように、石にも何かが宿っている。

また石は卵であり、卵は生命であり、それは割れて地面に吸収されて自然となる。そうした自然の出来事すべてをまるっと他者として総称する。

また、死者も他者であり、20年近く前に飲み過ぎで死んでしまった僕の父親も他者として常に呼びかけてくるし、これまた飲み過ぎで死んでしまった淡路プラッツの元塾長の蓮井さんもよく囁いてくるように感じる。

また、仕事を通して出会い死んでしまった何人かの若い人たちの呼び声も、僕が何かを決める時の基準になっている。

それらのゴーストは、時空を超えていつもそばにある。

■死があるから肯定がある

こんなふうに、我々周辺は(少なくとも僕のまわりは)他者だらけだ。

が、50才くらいまで、人は自分のことを「孤独」とすぐに思ってしまう。
その孤独は悪いことであり、人々との連携を常時希求している。

その孤独が生まれるのは自我が独立する10才過ぎからだから、かれこれ人は40年も孤独という虚構に苛まれる。

それが50才を過ぎると、本格的に虚構だと確信できるようになり、周囲に常に他者を感じゴーストのささやきに耳を澄ますようになる。

そしてその都度「決定」していくのだが、不思議なことにこれは、「死」が本格的に始まることと同時期のようだ。

死という別格の他者の始まりが、我々の周囲は他者だらけでありヒトは孤独ではないということを本格的に確信できる同時期だというのは興味深い。

死があるから肯定がそこにある。死を常に前提にしているからこそ日々の暮らしに確信をもてるようになる。そんな哲学の語りも実感できる。

他者=ゴースト=孤独ではない=決定できる=死、といった一連の事項はすべてつながっており、テキストからの学びではなく実感として確信できるようになったのも最近のこと。

言い換えると、孤独で、決定できず、死を志向しながらも実は恐れる若い人々に、僕は最近の自分の心境をいろんな方法で伝えたいとも思うようになった。

「まあ、騙されたと思って40才まで生きてみたら」と若い人たちにずっと語りかけてきたが、最近はこれを「50才」に変えて伝えています。★






2016年8月3日水曜日

50才の世界①

前回の「なぜ太るか」は1回で終了、今回から50才の世界シリーズに変化させてみた。

というのも、食にしろ回想モードにしろ、どうにも最近の僕は「峠を超えてしまった」感があり、それは言い換えると「現役ではなくなった」ということだ。

僕は小さな小さな法人の代表だから仕事的にはまだまだ現役ではあるのだが、世間の50代は管理職を外されたりしてのんびり会社員を満喫している人も多い。

この人たちはスペシャリストとしてその分野で現役感はあるのだろう。
けど彼らの話をよく聞いていくと、もう迷いもなくなり、同時に仕事についての目標も現場的なものだけになってしまい、ヒリヒリ感がすっかりとれてしまっていたりする。

組織の真ん中に残っている50代はさすがに現役だが、多くの周縁50代はこんな感じで、のんびり過ごす。

僕は、法人が食べていかなければいけないので微妙にヒリヒリ感は残っているものの、なんというか、だいたい「1周した」感があり、あと体力が著しく落ちたこともあって、たとえば本や映画やアニメやもろもろ、僕を僕として成り立たせていた文化系作品ともすっかり遠くなっている。

哲学はいまだにこだわっているが、哲学本は一生もつから別にあわてて買う必要もない。たとえば『ミル・プラトー』(ドゥルーズとガタリ)1冊あれば、一生読むものに困らないくらい、哲学的名著は難解だ。

文章一つ書くのも、別に調べたりせずとも今はネットで簡単に必要事項は見つかるし、これまで読んできた知見の中でだいたい書ける。

要は、物事に対する問題意識だけ枯らさずになんとか生きていれば、支援もマネジメントも執筆も、だいたいは前線に立てる。
こんなのを含めて、なんというか、「50才の世界」というものが広がっており、僕はこれまでたくさん読書をしてきたが、こんなこと誰も書いてなかった。

そうだよなあ、文学も哲学もアートも、みんなある意味「思春期」を生きている。当然、ロックも。そんなのばかりに接してきたから、僕は知らないのは当たり前。
こんなのだったら、『美味しんぼ』海原雄山モデルの北大路魯山人とか、もっと読んでたらよかった。★

かぁーっ、士郎!!