アタッチメントと恋愛の、「事後的」甘美〜ファーストプレイス(家族)の秘密②

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このブログではしばらくの間「家族」を扱おうと思っている。


前回、家族でのコミュニケーションを「感情のコミュニケーション」だとした。


感情のコミュニケーションと名付けざるをえないほど、家族という内部では、何気ないことで摩擦が起こってしまう。他人相手だとそれほど腹も立たないし悲しくもならずに割り切れることが、いざ家族(特に親子と夫婦)内でコミュニケーションする時、何気ないことを引き金に齟齬が起きる。


対立する当事者たちの内面では、感情的爆発と同時に、「?」も並走している。


なぜこんな些細なことで腹が立ってしまうのか、あるいは涙がでてきてしまうのか。当事者たちにもわからない。


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その謎の根源について、前回僕は、親子関係と夫婦関係の原点である「アタッチメント」期と「恋愛」期にあるのではないか、とした。それを以下のように表現してみた(それは「感情」のコミュニケーション〜ファーストプレイス(家族)の秘密)。


アタッチメント時代は(赤ちゃんを)抱いて歌っておっぱいを飲ませていればよかった、恋愛時代は互いを見つめ合い触れ合うだけでよかった。その時期が終わった後、その距離の近さはそのまま、ネガティブな「ひっかかり」のようなものが黒い感情として互いを襲う。


 20年近くに及ぶ子育ての中で、僕は、1才半頃までの「アタッチメント」を育む時期が最も重要だと思う。


たとえば、乳児院〜児童養護施設という集団養育のなかで薄いアタッチメントしか経験しなかった人は(そこに施設内虐待等あればなおさら)、いくつになっても他者を信頼できず、身近な者が荷物を取ろうと手を上げだけで身構えたりする。アタッチメントを獲得しないと、他者に対する信頼を直感的に得ることができない。


また、恋愛の初期において、互いが衝動的に惹かれ合う時期も、甘く甘美であり、それは性欲と結びつき、理性のコントロールの外に置かれる。


この時期はむしろ現実のセックスのほうが邪魔になり、紋切り的行動様式が問われるセックスを行なうことがむしろ、恋愛初期の甘美な欲望的世界を薄めてしまう。


一生懸命(紋切り的に)セックスすることが、逆にその恋愛に秘められているイメージの洪水を矮小化する。恋愛が神秘的なものではなくなり、決められた物語として矮小化してしまう。


「欲望」とはフロイト用語だが、「イメージに焦がれる」ということで、それぞれが抱く美的性的倫理的な諸イメージを、ある一人の人物に同一化してしまうことだ。このイメージの発動があって初めて、人は一義的欲求(食欲や排泄欲や射精欲等)から脱出することができる(欲求は生物学的、欲望はイメージ、欲動は生命の根底というフロイトの3分類)。


いわば、イメージを抱くことで、人はサルではなくなる。そのイメージの欲望の象徴が初期の恋愛であり、この時期は記憶も曖昧になってしまう。


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紋切りの罠に収斂されず、アタッチメント期を言語以前の乳児の奔放さに寄り添い、恋愛の欲望のイメージを爆発させると、その奔放さや爆発が完ぺきに近ければ近いほど、なぜか記憶が消失する。


甘美なアタッチメントと恋愛が完成に近づくと、なぜか細かい記憶が薄くなり、事後的な快楽だけが残る。


赤ちゃんの笑み、恋人の瞳、そうした断片的記憶はもちろんあるが、甘美なはずの細かい記憶が曖昧になってしまう。


そう、記憶は言語的に組み立てるものだから、「ことばの外」にあるそれらの甘美さをうまく捉えることができない。


言い換えると、それらの甘美さは「事後的に」よかったものとしてしか捉えられない。


それは、魔法による夢、のようなものだ。ことばでは捉えられないイメージと身体の本流がそこにはある。


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「家族」、その根幹である親子関係と夫婦関係の原点には、こうした「ことばの外のイメージ」がある。


それらのイメージは、とにかく「よかったもの」として事後的に捉えられている。なぜそれが「よかった」のかは、当事者たちにも答えられない。


けれども、その「中身のない甘美な記憶」が、家族のコアにある。その時期があるから、いまの生活に追われる時期も耐えられると自分たちに言い聞かせている。


「事後的に形成された甘美さ」が家族の根幹にあり、目の前の親やパートナーは、その甘美さの中心にいた人なのだ。


そうしたパーフェクトな事後的記憶のせいで、今という現実がいつも「なにか足りない」ものとなる。よく覚えてはいないが、この人とは、この子とは完ぺきにつながりあった実感がある。


でもなぜ、いまこの人と、この子と、わかりあえないのだろうか。あれほど完ぺきな甘い記憶があるのに。


こうした残念さかが、感情の本流となって家族内の人々を襲うのではないか、と僕は想像している。