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スモールステップ自立支援のフレームワーク

昨日ふらふらとヨドバシ梅田に行き、そしてふらふらとマックブックエアーを買ってしまった。初号機は20万円くらいしたが、最近のは8万円台でさらに軽く、性能もよい。出たのは去年の秋で、その頃僕はマックブックエアーどころではなく、趣味であるIT機器研究もどうでもよくなるくらい、自分の身体で精一杯だった。
あれから半年近く過ぎ、ふらふらとマックブックエアーを買うくらい余裕が出てきた。僕にとっては、アップル製品購入=仕事のやる気が充実という構図があり、自分ではまだまだ体力には自信がないもののどこかで余裕があるのだろう。
今回のこのブログも、プラッツでいま、ひとり別室にこもり書いている。ちにみに今までは自宅で、メインマシンのマックブックプロに向かっていた。しかしブログ作業も、いまどきのNPOにとっては、それは代表の暇つぶしではなく、立派な広報作業の一つなのだ。ツイッター→ブログ→ホームページ→セミナーや面談の申し込みという一連の流れを構築するためにも、このブログを充実させていくことは重要な仕事の一つとなる。

まあそう言いながら、いまもお一人お客様がやってこられたので、これからブログ作業を続ける部屋を探さなければいけない。今までのようなクオリティーをもつブログはやはり家で書いたほうがいいんだろうな、と思いながらも、とにかくマックブックエアーを買ったんです、ということを報告したかったのです。

ところで、6月5日の当プログに、「スモールステップ支援のチャート式最新まとめ」としてスモールステップ支援を簡潔にまとめてみた。だが、支援者ではない読者から、少し難しいという声があり、さらに、プラッツ機関誌「ゆうほどう」207号に「スモールステップ自立支援のフレームワーク」という原稿を書いてみた。今回は、これを転載してみよう。



プラッツのホームページに僕は週2回でブログを書いている。その6月5日のブログに、「
スモールステップ支援のチャート式最新まとめ」という記事を書いた。この記事は、ここ5年ばかりのプラッツの活動をコンパクトにまとめたものなので、それなりの感慨はあった。
その内容を、以下により簡潔に記してみよう。

★社会への参加の状態 まず、若者の「社会への参加状態」を、以下の10段階に分ける。 1.親子断絶型ひきこもり→2.外出不可型ひきこもり→3.外出可能型ひきこもり 4.心理面談型ニート 5.就労面談型ニート…

ナイナイ岡村の目 〈日記〉

今日はプラッツI統括リーダーとともに、某所へ講演に行った。こじんまりとした会だったが、Iリーダーの話も小気味よく、途中までは僕も聞き役だった。でもせっかくだからと、後半は僕も結構しゃべった。久しぶりの講演で、ちょっと血圧も上がったものの、やはり目の前に困った人たちがいると僕も燃えてきて、熱烈にしゃべってしまった。あとで少し反省したが、どこかで自分をコントロールしており、この調子で徐々に講演に関しても復帰していくのだと思う。

で、帰ってきて夕食をとり、風呂に入り、さあもう9時半だし寝るまであと1時間だルンルン(僕は毎日10時半に就寝)残りの時間は読書でもしようとつぶやいていたところ、そうだ、ブログを忘れていたと思い出した。
このところ、以前お世話になった人から頼まれている原稿を朝書いており、今朝も少しだけ書いてから出かけた。それはいずれこのブログでも紹介する。そういえば『季刊福祉労働』という業界誌に、ひきこもりスモールステップ支援理論の最新バージョンを書いたのが、今日送られてきた。それも近々プラッツホームページで読めるようにしたいと思っている。
そんなわけで、原稿的には適度に忙しい日々を楽しく過ごしているのだが(原稿はいくら書いても血圧は上がらない)、肝心のブログを忘れていた。

といってももう今日の分の脳は使い果たしたなあ。今日帰って少し考えたことといえば、ナイナイのゴチを見ながら、岡村ももう41才なんだよなあ、以前はよく女子芸能人と浮名を流していたが、最近はすっかりモテナイ君代表みたいになっており、隣の佐々木希を見る目付きもまるで舐め撮りカメラのようにいやらしいなあ、と思ったことくらい。
けど、岡村って、2ちゃんねるでは人気あるらしい。僕は2ちゃんはニュースくらいしか見ないけど、あの手厳しい2ちゃんのほとんどの書き込みは岡村に好意的だもの。
この頃は自分の結婚話題をネタにしておりテレビでもよく自分の恋愛観なども語っているが、まるで41才とは思えない初々しさ。その無防備さが何とも好感を持てる。たぶん、以前のさまざまな噂話は本当に噂話だけだったんだろうなあと思わされる。

芸能人は、たとえお笑いであってもそこそこモテてそこそこなところに着地していくというのが多くのパターンだが、岡村は、現実に結婚できない多くの若者達と同じような、「一生懸命なんだけど、どうしようもない」と…

生き残った、ということ 〈東日本大震災と我々〉1

淡路プラッツのような小規模の団体・ホームページ・ブログでも、ありがたいことにフォローしていただいている方々がいらっしゃる。そんななかの何人かから、「今回の東日本大震災について、そろそろなにか書けることがあれば書いてください」とおっしゃっていただいた。
確かに、震災直後は僕も大勢の人たちと同じように、追悼の気持ち以外は何も考えることはできなかったが、あれからもう3ヶ月が過ぎた。原発と政治は相変わらず超もたもたしているが、ニュースや新聞では少しずつだが復興は進んでいるようだ。僕の友人でも複数東北に出かけているし、プラッツスタッフで福島にボランティアに行ったものもいる。
僕は自分の体調が不安で、東北でのボランティアはできない。代わりに、自分にできる範囲でのわずかな義援金は行なってきた。それに加えて、このブログでもそろそろ何かを書いてもいい時期なのだろう。だからこその、冒頭のような声があると思った。

被災地にボランティアに行った人の現実の体験談とは別に、グーグルで「東日本大震災 ひきこもり」で検索してみた。すると、数はそれほどないものの、「生き残った」エピソードと「流された」エピソードが現れた。震災を機会に復興に力をかす若者、母親の説得も聞かず無言で津波にに流されていった若者、それぞれの個別的な出来事があった。
でも僕は残念ながら、やはりまだ、今回の地震と津波について直接書けないようだ。今回の震災のいくつかの出来事からひきこもり問題の何かを抽出し、少し抽象化して語るのは、やはり「暴力的」だと思う。「言語化することは原始的暴力なのだ」と僕は哲学に学んでいたが、今回の地震と津波という出来事に関して、つくづくそう思う。
おそらくそれは「不可避の」暴力だから、普通の肉体的暴力とは違って、倫理と責任の意志があれば行使してもいいのだろう。いや、他人への思いやり(倫理)と他人との齟齬も覚悟した決断(責任)があれば、その原始的暴力(地震と津波に関する言語化)を行使すべきなのかもしれない。
でも、最近の僕はそんなステージから下りることにした。倫理を重視する同じような立場でも、決断より追悼を重んじるステージに移動した。

直接大震災を書くのではなく、僕は、自分の体験と合わせて、「生き残った」ということについて書く。
この頃はだいぶ元気になってきて、仕事にも週4日、1日5時間くらいはこなせるよう…

『もしドラ』は決断主義を超えるか

前回書いたように、病気後僕は新聞ばかり読んでいるのだが、ここにきて普通の本が読めるようになってきた。だが以前のように哲学書のみという偏向な読書傾向ではなく、どちらかというと軽くて読みやすいものばかりを買っている。
どうせならいつものアニメチェックと同じように、売れている本チェックもしてやれ、ということで、この頃はベストセラーものにも手を出している。その流れの中で、『もしドラ』を買った。そう、あの、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』、だ。
『もしドラ』はアニメや映画(主演は前田あっちゃん!——しかしどこにでもAKBは出てくる。そして、現代の若者問題をそれなりに扱おうとしているこのブログにも頻出するということは、AKBは若者問題研究の必須テーマでは、なんて真面目に思ってきた)になっているとのことで、いわば時代の象徴的作品なのかもしれない。
この本を書店で見たのは碓か数年前だから、ぼちぼちと、ロングテールに、しぶとく売れ始め、いつの間にか時代の象徴的作品になってしまった。
僕はあのあざとい表紙をずっと心のなかで小馬鹿にしながら、告白すると、ずっと気になっていた。「ドラッカー」も「マネジメント」も単語としては知っていたが、これも告白してしまうと、「経営学」を僕はちょっとナメていたところがあって、25年前の大学時代からそれは変わらなかった。
経済学のほう、ケインズとかマルクスとかはわりと若い頃から読んではいた(なかなか理解できなかったが)。でも、経営学は、入門書をちょっと手にとっただけでも、エセ心理学みたいな、顧客と労働者をナメているみたいな、変なアルファベット略語だらけ(PEST,BRIO,KFS等、わけわからん)みたいな、とにかく、「本物志向」で青臭かった当時の僕(こんな学生、当時は珍しくなかった)からすると、どうも取っ付きやすすぎて逆に怪しい学問の代表、それが経営学だったのだ。

いまから思うと、当時はまだマルクスの影響が大学にも出版界にもぷんぷん残っていた頃。当時流行の柄谷行人にしろ浅田彰にしろ、マルクスを読んでなければ話にならなかった。経営学なんて、あとまわしのあとまわしだったのだ。
で、『もしドラ』だが、そのエッセンスをひとことで言ってしまうと(ストーリーは省く)、やはり、「人をいかす!」ということにつきるのではないだろうか。そのために、…

涼宮ハルヒはおたくとは別世界にいる

僕は退院後、すっかり新聞の価値を見なおしてしまって、駅で毎日買っている。将来、雑誌は消滅するだろうが、新聞は一定部数を維持すると思う。あのサイズと料金的な手軽さから、どこからでも好きな記事を読める新聞は、もしかして今、もっとも「デジタル」なメディアではないかと思っている。結局、メディアの元祖が最もデジタル的だったのではないかということ。

で、昨日日曜の朝日新聞書評欄を呼んでいると、出たばかりの『涼宮ハルヒ』シリーズ最新刊がなんともういきなり100万部を超えたと紹介されていた。当然僕も、発売日に即購入している。しかしいきなり100万部はすごい。あの赤面ものの水嶋ヒロ『kagerou』以来のスピードではないか。
内容は、僕はまだ50ページくらいしか読んでいないが、なんか難しい。何才か知らないがたぶん若くして大金持ちになった作者は、きちんとSFに向かい始めたのかもしれない。だが基本設定がライトノベル読者向けにできた物語なので、どんなにSF具合を凝ったとしても無理がある。半病人の僕には文庫本の字も小さすぎてつらく、途中でほったらかしたままだ。

以前どこかで書いたが、涼宮ハルヒシリーズはアニメも含めて、直接おたく(もちろん日本のオタクの何割かはひきこもり・ニートだ)の“萌え”心に訴えかけはしない。“萌え”を含むアニメカルチャーのさまざまな概念(ネコミミとかも入れてしまおう)にどっぷり浸っている消費者(つまりはひきこもり・ニートを含むおたくという巨大市場)の心をどうすればキャッチできるか、ということが物語を進めていく動力でもある。
ハルヒが会長を務めるSOS団のテーマは実は、「会員を増やしたいけど、勧誘は失敗し続ける」ということにある。「会員を増やしたい」→「そのためには主力客層であるおたくを狙う」→「そのためには現役女子会員にメイド姿をさせる」→「メイド現役会員とともに勧誘にハルヒ会長は出かける」→「勧誘はなぜか失敗」→「元の5人におさまる」というこを“エンドレス”に続けているというのがこの物語の骨子でもある(問題作に「エンドレスエイト」というタイトルの回もあった)。

なぜ失敗するかというと、ハルヒがキョンという語り手男子学生を好きだからであって、ハルヒは口で「勧誘」と言いながら行動ではいつもキョンといっしょにいたい。そのツンデレぶりはまさにおたく向けの物語かもしれないが、ハルヒや他…

おたくとひきこもり予備軍が楽しむ女性ジェンダーの自立 〈社会〉1

実家の四国で3日間のショート休養をしてきた。僕の脳もいよいよあちこちの回路がつながり始め、あとの課題は持久力のみとなってはきたが、今回病気になっていろいろいいこともあった。その第一は、盆正月は帰省していたが長らくご無沙汰気味だった母親との関係が、病気後、自然体でやわらかなよい関係になれたということだ。
母は70才、僕は47才、互いに同じ大きな病気をしている。父は残念ながら10年少し前に亡くなったものの、これまでも盆正月は帰省しており決して関係は悪かったわけではない。だが、やはり僕の精神は「仕事という“竜宮城”」へ浦島太郎のように出かけっぱなしになっており、特にこの5年ばかりは従来の人間関係とはとんとご無沙汰だった。そしてそのまま死ぬまでご無沙汰なのだろうと思っていた。でも、不思議なもので、病気というメッセンジャーが僕を竜宮城から引き出した。

そして僕は、自分で買って帰ったお土産を食べながら実家のテレビをぼんやり見ていた。実家にはいつの間にか光ケーブルがやってきており、ケーブルテレビというものを普通に見ることができた。10年前と変わらず音楽ビデオチャンネルは存在し、最近の音楽研究でもしてみるかと思いしばらくそのチャンネルにとどまると、AKB48が出てきた。たぶんあれは、前田敦子だろう、その人が顔をしわくちゃにしながら走り続けるというビデオだった。
前田敦子と前田敦子ファンには悪いが、前田敦子のしわくちゃ顔はある意味「芸能人」「アイドル」「イコン」を捨てている。そこにいる前田敦子は、アイドルではなく、人間だ。泣き、笑い、怒り、悲しむ、普通の人間としての前田敦子がそこにいた。それはあまり作りこまれた表情ではなく、体育の授業中の高校生のように、単にしんどそうに汗をかきながら顔を歪めて走っている。
それはだから、「女の子」でもない。女の子ジェンダーの前に、体育授業中の高校生であり、そこには女の子やアイドルという属性がほとんど見られない。
汗かき高校生、ついでに女子。そこにいる前田敦子はそんな人物を演じていた。

AKB48はたぶん、今一番売れている女性ジェンダーアイドル+タレントのはずだ。ということは、このような、「女の子」の前に「体育授業中の高校生」というイメージが十分商品価値を持つということだ。

少し前にこのブログでも書いた、京都アニメーションの代表的な作品は「けいおん!」という女子高…

スモールステップ支援のチャート式最新まとめ 〈支援の最前線〉9

今日から実家の香川へプチ療養に帰るので、1日早めの更新をしておこう。

昨日、プラッツで全体スタッフ会議があり、そこでI統括リーダーが上手に当法人の支援スタンスを説明してくれた。僕が説明するともっと硬くなってしまう。わかりやすいなあと思いながら聞いていたのだが、いわばその「元ネタ」は僕だから、ここであらためて「チャート式」的に整理しておこう。なお、元ネタの元ネタ(直接の元ネタではないが重要なヒントをいただいた方々)は、某H政大のH先生だったり、この前当ブログにも登場した某こころのKセンター元ワーカーさんだったり、何人かの僕の尊敬する方々である。
何人もの現場経験と研究知見があって初めてこのような「チャート式」は完成する。わかりやすさの影には、膨大な汗と真剣さが隠れている。また、以下は、厚労省のガイドラインともそれほど齟齬はなく、混乱は与えないはずだ。

すべては「スモールステップ」形式で記される。
★まずは、若者の「生活の状態像」から。
1.親子断絶型ひきこもり

2.外出不可型ひきこもり

3.外出可能型ひきこもり

4.心理面談型ニート

5.就労面談型ニート

6.短期「就労実習」型ニート(例.淡路プラッツの「トライアルジョブ」1回2時間×8日)

7.長期「就労実習」型ニート(職業訓練校含む)

8. 短期非正規雇用型ニート

9.長期非正規雇用型ニート(8と9について、ニートは働けない人なので矛盾表現だが、挫折した場合容易にニートに戻るためこのように表現する)

10.正規雇用
ちなみに、三年前に出した『ひきこもりから家族を考える〜動き出すことに意味がある』(岩波ブックレット739)では、これほど細分化されておらずもう少し大雑把だった。


★若者それぞれの「背景」もここに加わる。 a.精神障害 統合失調症、双極性感情障害(躁鬱病)、強度の強迫障害等。統合失調症の「陰性」にひきこもりが含まれていることもある。また、cの発達障害が背景の背景にある場合もある。 b.性格の傾向 ひきこもり的性格。内向的、繊細、プライドが高い、打たれ弱い等。これは非常に曖昧な定義であるため、専門家によっては、精神障害と発達障害に二分化してしまう人もいるだろう。 c.発達障害 現在もっともトレンドな話題。広汎性発達障害、ADHD、軽度の知的障害等。現在、広汎性発達障害にアスペルガー症候群と高機能自閉症をどのように統合するかというこ…

竹林の中から〜人生を4つの時期に分ける〜 〈支援の現場〉6

4月29日のブログ社会へのスモールステップを実感したで、僕は自分の人生が第3のステージにどうやら突入したようだと書いた。第1ステージは思春期までの自我形成期、第2ステージはそれ以降46才で倒れるまでの約30年間を指す。
現代日本人はしかし、この第2ステージのまま死の寸前まで生きる人が多いようだ。高齢化社会となり、これからはこれまでにもまして、第3ステージを飛ばしたまま最後の第4ステージ(つまり臨死期)に突入する人ばかりとなるだろう。 てなことを考えている今日この頃、作家兼僧侶兼今回の震災の「復興構想会議」メンバーである玄侑宗久さんの本を読んでいたらこんなことが書かれていた。
仏教を生んだインドでは人生を4つの時期に分ける。人生の基本を学ぶ「学生期」、結婚・家庭・仕事・社会的責任等に直面する「止住期」(わかりにくい表現だが、住む=ライフに留まるという意味だろう)、それが終わって個人に戻り林の中で住む「林棲期」、最後に、旅のなか所有物を減らしていきつつ死を迎える「遊行期」。玄侑氏によれば、ブッダはまさにこのとおりの人生だったらしい(玄侑宗久『死んだらどうなるの?』ちくまプリマー新書p34)。 確か、作家の曾野綾子さん(僕の個人的好き嫌いは保留ということにしておきます……)の本やインタビューでも、この最後の時期において「モノを捨てる」ということをさかんに提唱している。彼女はクリスチャンだから玄侑さんとはそれほど宗教的交流はないと思われるが、ふたりが示し合わせたように「最後は所有物を減らす」ということに言及しているのもおもしろい。 僕も最後はそうしよう。
ところで、僕がいうところの第3ステージ、古代仏教でいうところの「林棲期」であるが(というか古代仏教と自分を同列で扱ってはいけないいけない)、これに言及するものには今のところ出会っていない。最後の「遊行期」に関しては、曾野綾子さんはじめいろいろな人達がそれぞれの立場から述べている。でも、その前の、竹林で静かに本を読みながらじっくり一人の時間を過ごす「林棲期」について述べているものは、あるようでない。 それはそうだろう。記事・エッセイ・小説・論文などを書いている人たちはバリバリ社会に参画している人たちでもあり、そんな、竹林でおっとり本を読み人生から逃避している時間などない。竹林ではなく研究室や書斎や新聞社で、仕事や社会や自分や家族のために…