生き残った、ということ 〈東日本大震災と我々〉1

淡路プラッツのような小規模の団体・ホームページ・ブログでも、ありがたいことにフォローしていただいている方々がいらっしゃる。そんななかの何人かから、「今回の東日本大震災について、そろそろなにか書けることがあれば書いてください」とおっしゃっていただいた。
確かに、震災直後は僕も大勢の人たちと同じように、追悼の気持ち以外は何も考えることはできなかったが、あれからもう3ヶ月が過ぎた。原発と政治は相変わらず超もたもたしているが、ニュースや新聞では少しずつだが復興は進んでいるようだ。僕の友人でも複数東北に出かけているし、プラッツスタッフで福島にボランティアに行ったものもいる。
僕は自分の体調が不安で、東北でのボランティアはできない。代わりに、自分にできる範囲でのわずかな義援金は行なってきた。それに加えて、このブログでもそろそろ何かを書いてもいい時期なのだろう。だからこその、冒頭のような声があると思った。

被災地にボランティアに行った人の現実の体験談とは別に、グーグルで「東日本大震災 ひきこもり」で検索してみた。すると、数はそれほどないものの、「生き残った」エピソードと「流された」エピソードが現れた。震災を機会に復興に力をかす若者、母親の説得も聞かず無言で津波にに流されていった若者、それぞれの個別的な出来事があった。
でも僕は残念ながら、やはりまだ、今回の地震と津波について直接書けないようだ。今回の震災のいくつかの出来事からひきこもり問題の何かを抽出し、少し抽象化して語るのは、やはり「暴力的」だと思う。「言語化することは原始的暴力なのだ」と僕は哲学に学んでいたが、今回の地震と津波という出来事に関して、つくづくそう思う。
おそらくそれは「不可避の」暴力だから、普通の肉体的暴力とは違って、倫理と責任の意志があれば行使してもいいのだろう。いや、他人への思いやり(倫理)と他人との齟齬も覚悟した決断(責任)があれば、その原始的暴力(地震と津波に関する言語化)を行使すべきなのかもしれない。
でも、最近の僕はそんなステージから下りることにした。倫理を重視する同じような立場でも、決断より追悼を重んじるステージに移動した。

直接大震災を書くのではなく、僕は、自分の体験と合わせて、「生き残った」ということについて書く。
この頃はだいぶ元気になってきて、仕事にも週4日、1日5時間くらいはこなせるようになってきた。5時間を過ぎると、頭がすごくぼんやりしてきて、血圧も上がってくる。今の目標は、何よりも脳卒中の再発防止だから、スタッフには申し訳ないと思いつつ帰ってくる。そして夜の10時半には寝てしまうのだ。
そんな最近であはあるが、新聞や本で大病をしたり亡くなった人の記事や文章を見たり、自分がもしもしそうなってたら(実際三分の一の確率で死んでいた)とよく想像する。そして、「よく自分は元気に生き残ることができたなあ」としみじみひとりつぶやく。生き残ったとしても重い後遺症でリハビリに励むことがむしろ普通の病気だ。そうした方たちには申し訳ないと思いつつ、「よくぞ自分は生き残ることができ、短期間で職場に復帰できた」と正直なところ考えてしまう。

こうした思いは、元気になればなるほど強くなってきている。今の僕は、ここに何らかの因果関係を持ち込むことはしない。たとえば「神のご加護で」とか「祖先に守られて」とか「祈りのおかげで」となれば、それは当然宗教になるものの、この25年間、がちがちのポストモダン哲学で洗脳されてしまった(さらに、宗教を基本的に否定する近代的価値観がベースにある戦後日本で生まれ育った)僕の脳は、残念ながらすぐにはそうならない。
かといって、「自分だけがなぜ生き残ることができたのか」という倫理的問いもたてることはない。ひたすら、倒れる前とほぼ同じような状態で生き残ることができたラッキーさに思いを馳せるのみだ。
だからしょっちゅう、僕はラッキーだった、とつぶやいている。むしろそこに、生き残ることができた後ろめたさ、何かの力で生き残ることができたという因果関係、これらもろもろを意図的に排除している。
ひたすら、僕はラッキーだった、と思うことにしている。

人間が小さく見えてしまうという、変な感覚が今の僕にはあって、それはスケールが小さいというような比喩的意味ではなく、また離人症的な意味でもない。山や川や海といったまわりの自然に比べると、いかにも一人ひとりの人間のサイズは小さく、ついでに言うと人間がつくったもの(ビルとか)もかなり小さいということだ。
単に、ひとつの山よりもひとつのビルのほうが圧倒的に小さいという、理性的に考えれば当たり前の物理的比較の問題なのだが、その物理的事実があっさりと僕に迫ってくる。そうか、ビルより山のほうがはるかにでかいんだ、という事実は、僕にとって新鮮だ。病気の前までは、人間がつくったビルのほうが、うっかりすると山よりも大きく思えていた。意識が、山ではなく(人間がつくった)ビルのほうに集中する傾向があったと言い換えてもいいのかもしれない。
人間が小さいのではなく、そもそも人間は物理的にはそれほど大きくなかったということ。今は、すべてをフラットに見ている。

人間はそもそもそんなに大きくはない。死ぬのも生き残るのも、やはり偶然が大きく左右する。存在することには大きな意味はないが、意味はないわけではない。その背景に、神や宇宙の力を信じるのは個人のお好みで。
確実に言えるのは、存在しているということは、ラッキーだということだ。そこで、仕事をするかどうかということには大した意味はない。それこそ個人のお好みの問題。同じお好み問題でも神を信じるかどうかのほうが重要なお好みのような気もするが、今の多くの若者は、そんな悠長なこと、そんな根源的なことを考える暇はないほどたいへんだろう。
だから僕は、そうした仕事の悩みをもつ若者に対して以前と同じようにきちんと支援していくつもりだが、まあ、仕事で悩む前に根源的「お好み」問題はある。こっそり僕はそういうトークを(そうしたトークを望む)若者とするだろう。★