竹林の中から〜人生を4つの時期に分ける〜 〈支援の現場〉6

4月29日のブログ社会へのスモールステップを実感したで、僕は自分の人生が第3のステージにどうやら突入したようだと書いた。第1ステージは思春期までの自我形成期、第2ステージはそれ以降46才で倒れるまでの約30年間を指す。
現代日本人はしかし、この第2ステージのまま死の寸前まで生きる人が多いようだ。高齢化社会となり、これからはこれまでにもまして、第3ステージを飛ばしたまま最後の第4ステージ(つまり臨死期)に突入する人ばかりとなるだろう。
てなことを考えている今日この頃、作家兼僧侶兼今回の震災の「復興構想会議」メンバーである玄侑宗久さんの本を読んでいたらこんなことが書かれていた。

仏教を生んだインドでは人生を4つの時期に分ける。人生の基本を学ぶ「学生期」、結婚・家庭・仕事・社会的責任等に直面する「止住期」(わかりにくい表現だが、住む=ライフに留まるという意味だろう)、それが終わって個人に戻り林の中で住む「林棲期」、最後に、旅のなか所有物を減らしていきつつ死を迎える「遊行期」。玄侑氏によれば、ブッダはまさにこのとおりの人生だったらしい(玄侑宗久『死んだらどうなるの?』ちくまプリマー新書p34)。
確か、作家の曾野綾子さん(僕の個人的好き嫌いは保留ということにしておきます……)の本やインタビューでも、この最後の時期において「モノを捨てる」ということをさかんに提唱している。彼女はクリスチャンだから玄侑さんとはそれほど宗教的交流はないと思われるが、ふたりが示し合わせたように「最後は所有物を減らす」ということに言及しているのもおもしろい。
僕も最後はそうしよう。

ところで、僕がいうところの第3ステージ、古代仏教でいうところの「林棲期」であるが(というか古代仏教と自分を同列で扱ってはいけないいけない)、これに言及するものには今のところ出会っていない。最後の「遊行期」に関しては、曾野綾子さんはじめいろいろな人達がそれぞれの立場から述べている。でも、その前の、竹林で静かに本を読みながらじっくり一人の時間を過ごす「林棲期」について述べているものは、あるようでない。
それはそうだろう。記事・エッセイ・小説・論文などを書いている人たちはバリバリ社会に参画している人たちでもあり、そんな、竹林でおっとり本を読み人生から逃避している時間などない。竹林ではなく研究室や書斎や新聞社で、仕事や社会や自分や家族のために「書く」。
同じく本を読んで書く作業ではあるが、社会に積極的に向かっているという点で、それは林棲期ではない。それは人生の第2ステージである止住期なのだ。
モノを書く人たちでさえこうなのだから、組織に属しモノをつくったり売ったりする人たちは、もうバリバリの止住期だ。何も会社人間だけを指すのではなく、家庭や地域社会で積極的に活動することもここには含まれる。会社や家庭や地域社会で、いま、多くの人が充実した人生を過している。

僕も、淡路プラッツというNPOで充実した日々を過している。この頃は病気が徐々に回復し始め、勤務している数時間の中では以前のように脳が複数の用件を同時にこなせるようになってきた(これを僕は脳のデュアルコアプロセッサ化と呼んでいる)。時間限定ではあるが(3時頃になると電池切れ)脳はデュアルに動いている。
しかし、一旦入った林棲期の心境は、どうやらそのままのようだ。いや、せっかく入った林棲期に愛着が出てきたようだ。また、人間には林棲期が必要だという確信も抱き始めた。さいろしゃの松本君のようにはすべてを実践できないが、僕は僕なりに、高齢化社会における林棲期というものを真面目に考え、実践していきたいと思っている。

ひきこもりの青少年たちは、今回の人生ステージの言葉でいうと、止住期の手前で引き返し、学生期の入口までさらに引き返した時期にいる、とも表現できる。社会のなかでそれなりに何かを成し遂げていないひきこもりは決して林棲期ではない。そのずっとずっと以前の段階で立ち止まっているのだ。
だからこそ、社会参加王道の第2ステージ(止住期)にいる人の言葉ではなく、ある意味枯れた立場にいる林棲期にいる人の言葉が届くと思う。僕は、竹林の中から、社会参加に悩んでいる人たちに向かってやんわり言葉を投げかけていこうと思う。★