アタッチメントの呪縛がほどける〜ファーストプレイス(家族)の秘密③

 ■アタッチメント期と恋愛期


前回、前々回と、乳児期のアタッチメントや恋愛期の濃密さが「家族」の原点となり、その明確な記憶を消失することで、逆にそれらが理想化されることを簡単に書いた。


その記憶の「イデア」化が、我々の人間関係の原点となり、我々にコミュニュケーション能力を与える。


だが皮肉にも、獲得したコミュニケーション能力と反比例するように、我々の原点であるアタッチメントの記憶をなくし(乳児期)、その記憶は理想化されていく(恋愛期以降)。


■風俗店でも


今回は親子関係の移り変わりをみてみよう。


決定的なアタッチメント期がすぎ、他者への信頼関係という技術(というか、一般的な人間の属性そのもの)を獲得し、我々は小学生高学年となり、やがてそれぞれの人生にとっては決定的な思春期に突入する。


同時に、その人らしい自我がようやく確立され、その人にとっての人間関係が始まる。


その時、それら人間関係を確立できるための土台を与えてくれた(主として)親は背景化する。親が背景化し、我々は友人や恋人を作ることになる。


その後は、誰もが体験する青春が始まる。中にはひきこもりになり、他者関係の希薄な思春期を送る人もいるが、メディアやネットを通して、「親以外のアタッチメント」を求める点では同じである。


中には、「風俗」店において、人工的ではあるが「濃厚な接触」を求める場合もある。


■自由は孤独とのトレードオフ


こうした時期を通り抜け、次にやってくるのが、元々のアタッチメント提供者である「親との別れ」だ。


それは現代日本では、たぶん20代前半に訪れる人が多いだろう。いや、ここ最近の20年程度では、20代後半かもしれない。


その時、アタッチメント提供者であるその人間(親)は、アタッチメント受給者である人間(子ども)からすると、フツーの少し老いた大人として目の前にたたずむ。


そのたたずみは何とも寂しげで、かといってそこから離れる時期はすでに来てしまっている。


だから離れていき、離れた後は、あれだけ感情的に対立していたその人と喧嘩しなくなる。


その時点が、子どもにとって、「感情のコミュニケーション」の場であるそのファーストプレイス(家族/家庭)から離れた瞬間だ。


以降、親子はほとんど対立しない。対立するとすれば、大人同士の対立になり、それは金銭が絡むことになる(この段階で起こる「事件」と、思春期時の「感情の対立」事件とはそもそもフェイズが異なる)。


親子間の感情的対立が極端に少なくなった時、その時が親からの自立を示す。それ以降、子どもがゲットできた「自由」は、同時に抱く「孤独」とトレードオフになる。


それが「大人になる」ということだ。