なぜ「子ども」か① 〈東日本大震災と我々〉

水曜日に聞いた侍学園の長岡さん講演レポートは、何となくだいぶ前のような気もしてきたのでやめる。そのかわり、関西カウンセリングセンターK事務局長がFacebookにアップした当日の写真を無断転載しておこう(ごめんなさい、K事務長!)。うまくリンクできるかな。

で、今日は日曜日で、僕もこの頃はだいぶ普通に仕事ができるようになってきており、でも前のような仕事の仕方はしないと心に固く誓っているので、ぼんやり過ごそうと思っていたのだが、こうしてパソコンに文章を書くのは、僕にとってはどうやら仕事ではないらしい。思い起こせば25年前、さいろ社を創設した頃から、延々こうしていろんな媒体で文章を書き続けてきた。
いや、もっと思い出すと大学の「文芸部」時代から、延々何かを書き続けてきている。いやいや待てよ、もっと思い起こすと、高校時代から、小説みたいなものを書き始めたな(一向に目が出ないが)。
そういうわけで、こうした文章書きは僕にとってはまさに僕自身を示す行為なので、まったくストレスとならない。特にブログは、書いてアップするだけという、まったくもって楽な媒体だ。ストレスの元どころか、ストレス解消の方法なのだ。

ストレス解消といえば、文章の他に、僕は毎日、新聞や週刊誌を読むことで何かを発散している。何を発散しているのかはわからないが、何かすっきりする。だからこれも、20代の頃からの習慣となってしまっている。
新聞は、朝日新聞や日経を買う。朝日は00年代はよくわからない編集方針とレイアウトになっていたが、ここ数年はまともになってきたと思う。00年代は2面にいきなり福祉レポートが載ったりとラディカルではあったが、マスコミとしてはマニアックに走り過ぎていた。今はそれなりにバランスが取れている。
朝日らしさの「市民運動」っぽさも、ご愛嬌程度に最近は薄められ、どちらかというとワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズトは読んだことないが、ワシントン・ポストとかニューヨーク・タイムズっぽい(体制内リベラルということ)。土曜と日曜の付録がたいへんおもしろいので、だまされたと思って、日曜のグローバル版だけでも読んでみたらどうだろう。
日経は、最初はそのわりきりが鮮烈だったのだけど、慣れると飽きる。だから僕は時々しか買わない。株式欄も意味わからんし。毎日は平凡すぎるし、読売は昔の新聞すぎる。ちまたで話題の産経は時々すごくおもしろいけれども、やはり僕は古い人間なのだろう、あの右翼っぽい論調が時々虫酸が走るほどいやになるときがある。

週刊誌は、月曜日の週刊現代と週刊ポスト、火曜日の週刊朝日とサンデー毎日、木曜日の週刊文春と週刊新潮は毎週ほとんど買っている(ポストはさぼるかな)。文春は別格として、最近は現代が好調のようだ。ただいずれも値段が350円になっており、現代などは400円の時もある。コンビニで、現代と日経と朝日と野菜ジュースとこんにゃく畑を買うだけで1000円近くになったときは、びっくりした。

原発報道は、現代と文春が飛び抜けている。現代はどちらかというと放射線の恐怖を煽る系、文春は「第一原発・吉田所長ヒーロー」系の線で書かれている(最近、吉田所長は一方的善玉ではどうやらなくなってきた)。朝日と毎日は腰が引けている。ポストは、自由報道協会とか小沢一郎とか、独自路線で売っている(だが、原発報道第一報は、ポストが最も評価が高かったのだから不思議なもの)。
こうして週刊誌を読んでいると、いかに新聞が「そこそこの」報道しかしていないことがよくわかる。新聞の見所は、毎日掲載される、東北各地の放射線量の数値だろう。新聞(マスコミ)として論評抜きで仕方なく掲載されているのだろうが、数字は嘘をつかない。その数値を追っていると、福島市から東南の数値が突出して毎日高いことがはっきりとわかる。

おっと、もうだいぶ書きすぎてしまった。ブログは、1回につきあまり書かれていると読む気をなくしてしまう。このようにマスコミ報道を追っていても誰も言及しないあるテーマを今回は書いてみようと思ったのだった。それは、命は平等と僕は小さい頃から学校や社会で教わってきたが、どうやら原発事故においては命は平等ではないらしい。原発事故においては、子どもの命のほうが尊重されるらしいが、その感覚の“根っこ”について考えてみようと思ったのだった。
僕もだいぶ元気になってきて、本来の僕らしさが戻ってきた? 続きは次回に!★