■フォーマルな空間が、緊張を強いる
大阪府立西成高校で「モーニングとなりカフェ」を運営していて気づくのは、生徒たちにとって「教室」や「授業」は、つくづく「職場」=セカンドプレイスだということだ(ポジティブな「ぼっち」~サードプレイスとしてのモーニングとなりカフェ)。
セカンドプレイスは別に悪い場所ではない。大人にとっての職場、生徒にとっての教室、これらで仕事や勉強をすることは、大人や生徒にとってのフォーマルな行いであり、その行ないあってこその「会社員」や「生徒」であることができる。
が、セカンドプレイスは結構厳しい。
セカンドプレイスでは常にストレスがのしかかり、緊張感とともに時間を過ごしている。
セカンドプレイスがないことには、お金も学歴も手に入らないと当事者たち(会社員や生徒)にはわかっているものの、そこに漂う緊張感は並大抵のものではない。
これは、モーニングとなりカフェで生徒たちと雑談していてもしっかりと感じ取ることができる。
クラスや担任、クラスメートの何が悪い、という話ではない。
それらが一体となった「セカンドプレイス」、フォーマルな空間が、生徒や会社員に緊張を強いるということだ。
■「単位」というセカンドプレイスでのご褒美
だから僕が不思議なのは、現在いくつかのNPOが取り組む「授業の枠内での対話を通じた自己発見や将来展望」プログラムは、生徒たち自身にとって、ある意味フォーマルな(言い換えるとタテマエやウワベだけの)ものに収まってしまうのではないのか、ということだ。
フォーマルな場所、セカンドプレイスとしての教室において、生徒たちは自分の人生のあらゆる可能性について考えることができるのだろうか。
授業という形式(教室内や時間構成)は、支援者や支援団体や学校サイドにとっては非常にわかりやすい。
そしてそれは、「単位」にもつながる。
だからこそ、「単位」というセカンドプレイスでのご褒美と直接つながるからこそ、その底に、「10代当事者」としてのハイティーンの苦悩や光が潜在化することはないのだろうか。
つまりは、感性豊かなハイティーンたちは、たとえNPOのおねえさんおにいさんがファシリテーターをしてくれるとはいえ、授業というセカンドプレイスにおいて、自分たちのホンネを見つけることができるのか、ということだ。
その「ホンネ」は、おねえさんおにいさんに合わせているだけの、単位になりやすい優等生的なものではないか。
■「拘束のセカンドプレイス」で、自分や世界を発見できるか
当然、こうした「学習」のなかで人生を再発見できる高校生もいるだろう。
が、モーニングとなりカフェで聞くことができる、ハイティーンの圧倒的孤独と絶望(とわずかな希望)は、教室的セカンドプレイスでは決して出てこないように思う。
生徒たちが「授業というセカンドプレイス」にどういう思いで臨んでいるのか、あるいは、そうした「授業」を楽しめるハイティーンはある種の優等生たちであることを、どれだけのNPOは配慮しているのだろう。
セカンドプレイスには基本的に自由はない。
だからこそ、「単位」が舞い込んでくるし、大人であれば「報酬」が舞い込んでくる。こうした「拘束のセカンドプレイス」において、自分や世界を発見することができるのだろうか。(^^)
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モーニングとなりカフェの準備風景。ストーブが温かい。 |