■「ソーシャル複合体」
まだ明確に言語化できないのだが、「ソーシャル複合体」とでも名付けざるをえないムーブメントが、ここ10年の日本社会を覆っている。
それはまず、IT等のベンチャービジネスから落ちこぼれた人々の逃げ道として用意され、そのルサンチマンに気づかないまま宣伝される広報戦術に乗って行ってしまった、同じくルサンチマンを抱える大学生を大量動員している。
それはまた、リベラル色の強いメディアが応援する。
それはまた、大企業のCSR部門が、社会正義という対消費者に良いイメージを与える概念を使用する好機会でもある。
それはまた、たとえば「大阪万博誘致」的な、行政主導のイメージ戦略にとっては非常に好都合な題材である。
■「ソーシャルインパクト」的夢のパワー
IT落ちこぼれ組ルサンチマンNPOについては、この前書いた僕のこの記事(さっさと六本木ヒルズに行ってよ、おしゃれNPOリーダー)を参照されたい。
大学生のルサンチマンについてはこの記事(大学生とNPOリーダーの、密かな共犯)等を。
ルサンチマンNPOリーダーと、ソーシャルに憧れる大学生は、微妙な「共犯」関係にある。
互いが互いの欠落をカバーしあいながら、「ソーシャルインパクト」的夢のパワーに後押しされて結合している。
リベラル色一辺倒のメディア、そのこと自体はさして悪くはないが、微妙な議論(保守や原発やそれこそソーシャル等の境界の話題)について直言することは避けがちな現代のマスメディアも、これら「ソーシャル」を後押しする。
大企業CSRや大阪万博的行政主導イベントも、無反省にソーシャル団体を持ち上げPRの道具としている(大阪万博誘致「ソーシャル動画」など)。
大阪万博についてはもっと露骨な動画を某区役所1階で僕は今日延々鑑賞していたのだが、それはいま簡単には検索できなかった。が、上添付PR動画とそこに貼り付けられている大阪市動画を見るだけでも、「ソーシャルの夢」をこれらは十分アピールする。
■ソーシャル複合体は無邪気すぎる
僕が不思議なのは、児童虐待やDV、それらを起因とする第四の発達障害など、貧困コア層(全国規模では1,000万人以上だろう)の問題を看過してしまうこうした「ソーシャル」的動きに、ソーシャル当事者は何も罪悪感を抱かないのか、ということだ。
そんな質問を、コア層を看過しているNPOリーダーなどにぶつけると必ず、
「子ども食堂や学習クーポンはいまはコア層に届かないかもしれませんが、いつかは届くと信じています」
と無邪気に反論する言葉と出会うことになる。
そうだろうか。
コア層に彼女ら彼らソーシャルな人々はいつかは届くだろうか。
僕は超悲観的にみている。だって、貧困コア当事者層が避けに避けているのが、これら「ソーシャル複合体」なんだもの。
ソーシャル複合体は無邪気すぎる。彼女ら彼らの正義感や優しさが、いかに貧困コア層を傷つけているか、想像できない。
そう、その存在(複合体の)があるというだけで、コア層の深刻なあり方が隠蔽されてしまう。
なぜ、この微妙さを想像できないかなあ、ミドルクラスたちは(^^)。
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