バンパネラと鬼の、永遠のいのち

僕は映画版の『鬼滅の刃』を見ていないが、見た人に聞くと、映画の後半で出てくる「上弦の鬼」であるアカザの声優があの石田彰(ガンダムSEEDとかに出演)だとわかった時、映画館中がざわめいたらしい。 

 まあそれは声優ファンたちのざわめきだが、今回の映画版はマンガでいうと8巻、全23巻を予定する『鬼滅』後半で死んでしまうアカザのラストに比べると、8巻や映画版でのアカザはとにかく「太陽」に怯える鬼だ。 

 朝が来て、スタコラさっさと逃げていくそのさまは何ともみじめで、その太陽に怯える様は『鬼滅』ラスボスの鬼舞辻無惨(キブツジムザン)も同じ。

いや、1000年生き続けるラスボスの無惨の最終目標は、「太陽の光を浴びても(つまり日中でも)死なない」肉体を手に入れることだ。 

 夜にしか生きることができない「鬼滅」の鬼たちは、日中も自由に活動し「限られた命」だからこそその生を生き切ろうとするヒト(『鬼滅』であれば無惨の最強の敵である縁壱(ヨリイチ))に憧れる。 

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 『鬼滅の刃』は、週刊ジャンプの諸作品のパロディでもある。その筆頭は『ジョジョの奇妙な冒険』だろうが(「呼吸」の使用法)、やはり僕は、ジャンプではないものの、あの『ポーの一族』を思い出す。 

 孤独なバンパネラであるエドガーはアランを仲間に加えて、数百年の時を生き続けている。

『鬼滅』と違ってエドガーは日中でも生きていられたと記憶する。そして、『鬼滅』の鬼たちと違って大々的には人を襲わない。

人との時間をかけた交流の中、最後に仕方なくエドガーは人間の血を吸い、自分の血を与えてバンパネラに変化させる。

 エドガー(とアラン)は、静かに、ひっそりと生きている。

そして同じ場所に留まることもできない。その容姿が10代前半のため、数年経っても成長しないその姿のありように気づかれることは危険なのだ。

だから、10代前半のまま、ヨーロッパ中を彷徨う。 

 それに比べて日本の鬼たちは凶暴で、ある種の市民権を得ている。
「鬼が出た」「鬼の仕業」という会話が日常的に人間世界で飛び交う。 

 けれども日本の鬼は昼間生きることができない。

どんなに闘いが優勢でも朝日とともにスタコラさっさと惨めに逃げていく。 

 ヨーロッパのバンパネラは昼を生きるけれども、永遠に「影」の中を生きている。

目立つことのないようひっそりと静かに紅茶を飲みつつ生きている。日中ではあるものの、それは暗い夜を生きているのとあまり変わらない。 

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 50代も半ばを過ぎて久しぶりに『鬼滅』というバンパネラものと僕は出会い、10代の頃読んでいまだに鮮明に記憶するエドガーのそのあり方を思い出し(作者の萩尾望都は『ポー』の新作を最近描き始めた)、その「夜」や「影」への向かい方をこの頃はよく考える。 

 僕は46才で脳出血になり奇跡的に一命を取り留め、最近も別の病気で少し苦しんだこともあり、エドガーや鬼たちの抱える「永遠のいのち」についてよく考える。 

 また、無惨が嫉妬する縁壱的いのちの燃焼についても、よく考える。 

 上弦の鬼のアカザは、太陽が昇る前に、大急ぎで夜の世界に戻っていった。

エドガーは日中とはいってもいつも家で紅茶を飲むか霧の中を歩いていたように記憶する。

それらは時間の無制限の延長という意味では確かに「永遠」なのだけれども、夜や霧の中に戻り続ける永遠だ。 

 対して、生物の死は多くの場合惨めなものではあるが、そして中途半端なものではあるが、考えようによってはそれは明るく軽く、走り続けることのできる時間でもある。

 縁壱のようにカッコよく死ぬことは稀なものの、終わりに向けての1秒ごとを走り抜けることはできる。 

 その走り抜けは、夜への回帰でもなく霧の中へ溶け込むことでもない。軽快に走り抜け、そこに伴う老いや病と付き合い、「魂そのもの」のような裸のあり方。 

 そんな毎日を僕は過ごすことができてるかな? 


逃げるアカザ『鬼滅の刃』8巻より