現在、「共同親権」を推し進める社会運動の内部で微妙なすれ違いがあるようだ。
僕はイマイチその内容が理解できていないのだが、共同親権を推し進めるために行なったことが、やりすぎや根回し不足ということで揉めているらしい。
これは実は、たいへん良いことだと僕は思う。
元々、共同親権・養育という一点でしか集まっていない当事者(別居親)のみなさんが力を合わせて民法改正に向かう時、そうした大目標が目の前に見えてくると、人間社会というものは多くは揉めていく。
それを内ゲバみたいなバカバカしいものにせず、民放改正という大目標に向けて議論し小さいことで揉めて一時的に団結し、さらに議論したり揉めたり団結して、結局は法改正というゴールに辿り着くのが、さまざまな考えを持つ人間たちが集うムーブメントということになる。
その間には「リーダー」が出てきたりそのリーダーが挫折したり新しい人が議論をふっかけたりその新しい人が挫けたりと、いろいろある。それはまさに、フランス革命の頃からいろいろある。
それが「当事者」のムーブメントというもので、社会に新しく「権利」を確立する時は欠かせないものだ。
その過程で、たとえばキング牧師が亡くなられたような悲しい出来事も生じる。
そんな、いろいろな人々の叫びや願いや悲しみが起こり通過した後に、ひとつの「権利」が確立される。
近代社会はその繰り返しで、現在の日本であれば、その権利とは、
共同親権
と呼ばれる。
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そんな動きを見せるいま、先日の11月27日に、「共同親権研究会@西東京2〜オレンジ革命の内側と外側から」というイベントがあり、僕も登壇していろいろ語ることができた。
その夜は、研究会のあと懇親会を21時30分過ぎから開始し、20名以上の方が参加されたと思う。
研究会を受けた熱いトークが懇親会でも繰り広げられ、場所は立川という都心から比較的離れた都市で開催したため終電を逃した方々も10名近くおられ、それらのみなさんが始発待ちのためにカラオケ屋で過ごすという、久しぶりのファンタスティックな一夜となった。
研究会自体は「内側と外側から」という副題にもあるとおり、別居親やそれを支援する弁護士の方という「内側」の人たちと、僕のような支援者や一市民として共同親権問題に関心を持った方々、大手マスコミやフリーのメディア関係者といった「外側」の人たちが集まり、来春にも控えている民法改正も視野に入れたさまざまな問題が議論された。
そこで印象的だったのは、「オレンジ」という言葉だった。
最初にも書いた通り、今年になって特に活発になってきた共同親権をテーマにした動きにたどり着くまで、これまでさまざまな議論が展開されてきた。
だが現在は、ついに念願の民法改正(それは民法創設後125年後に訪れた抜本的改正でもある)である「単独親権から共同親権へ」がすぐそこに訪れている。
その法改正の瞬間に向けて、多くの恩讐を乗り越えて、改正の一瞬だけまとまる時が来ている。
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具体的には、民法819条冒頭のこの1行の変更にそれは集約される。
「第819条
- 父母が協議上の離婚をするときは、その協議で、その一方を親権者と定めなければならない」民法第819条 - Wikibooks
ここにある「その一方を」を「その両者を」に変更するだけなのだが、そのたった一つの言葉の言い換えに、民法成立後125年、戦後になってからでも75年間を要している。
それがついに、改められる時が来た。
そしてその時は、人々のさまざまな思いは残しつつ、「ひとつの色」に染め上げる瞬間でもある。
その色は、人々の思いが溶け込みやすい色、溶け込めるような暖かい色である必要がある。その暖かさと溶け込みの象徴が、
オレンジ
だと僕は思う。
当事者たちが行なってきたパレード的な発信活動の中に溶け込んでいったこのオレンジが、共同親権へと人々を駆り立てる一つのテーマカラーになった。
ある意味、自然発生的にその色は選ばれ、選ばれ続けてきた。
人々の叫びや願いや悲しみを統合し象徴する一つの色として、「オレンジ」はいつもそこにある。それはオレンジ・ムーブメントやオレンジ革命と呼ばれ始め、我々の「家族」の新しいあり方を示し包み込むやさしい色だ。
これは日本では珍しい、「色」が人々を包み込み奮い立たせるムーブメントで、内側や外側の人々が無理のない範囲で集まり語れる色、それが「オレンジ」なのだ。
親権という、家族システムの根幹の抜本的変更は文字通り「革命」なのだが、この革命はジョン・レノンが叫んだような声高なレボリューションではなく、人々の思いがオレンジ色にゆっくりと染め上げられ包み込まれる、オレンジの香りと色による暖かな革命だ。