校内居場所カフェは「太陽の塔」になれるのか

西成高校で校内居場所カフェ「となりカフェ」を始めて、今年で9年目になる。 

このとなりカフェが高校内居場所カフェの「一号店」であり、予算面を大阪府の行政財源に頼りつつ、現在は教育委員会(教育庁)事業となり、毎年さまざまなチャレンジを試みている。

それは、【「オフロードパス」でつづける校内居場所カフェ】記事などでも僕は書いてきた。

生徒にとって「サードプレイス」であり、一定の中退予防効果をもつ校内居場所カフェは、昨年単行本にもなり(学校に居場所カフェをつくろう!)、また、全国に同様の居場所カフェが50校ほどに広がったことも合わせて、社会的には一定の評価をいただいている。 

ただしこの校内居場所カフェは、高校内にあえて設置する(本当にしんどい生徒は町中の「居場所」にはなかなか行けない)ため、高校の体制が変化すると(要するに管理職が交代すると)、そのスタイルも変化し始める。 

だからこれはある意味「民主主義」と同じで、そのあり方を、学校の変化とともに常に模索していく必要のある「永久運動」のような存在だ。 

学校が変われば居場所カフェも少し変化する。また、それを運営するNPOが変化すれば当然その中身も変化していく。 

いまのところそれほど劇的変化のある校内居場所カフェはないかもしれないが、毎年毎年各校のカフェのスタイルは変化しているだろう。 

 今年はコロナ禍もあり、その変化や停滞は、各高校で特徴があると思う。  

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また、校内居場所カフェの「評価」方法についても、長い議論が積み重ねなれている。 
 それは、 

①校内居場所カフェのコンセプトのようなものがあるとして(たとえば、概念・学校との関係・食事内容・文化形成の意味等)、そのコンセプトに純粋に従うべきであるという「純化」路線 

②高校内のいくつかの「リソース」(就労支援やカウンセリングやソーシャルワーク等)と柔軟につながる「ネットワーク」路線 

 ③その混合 などのかたちが考えられる。 

また、

 a.「中退予防」にどれだけ貢献したか

b.生徒の内面的変化(学校や親に対する生徒一人ひとりの評価がどれだけポジティブに変化していったか) 

などの評価軸も考えられる。 

いずれにしろ、校内居場所カフェは、生徒にとってポジティブな影響を与え、その因子はいまだ明確ではないにしろ、校内居場所カフェの存在そのものが生徒にとってはポジティブな要素の一つになっていることは確かなようだ。

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けれどもそのポジティブな効果は、なかなか数値化できない。

数値化=科学的表象は、居場所カフェ以外の要素が学校には多種多様にあるため(管理職のあり方・教師集団のあり方・都道府県ごとの教育システムの特色等)、なかなかそのポジティブ効果の原因を一つに絞れない。 

だから、校内居場所カフェは、 「それが学校にあればたぶん良いんだろうが、その良さの意味は永久にわからない」 という、マジカルな存在になっていく。 

僕はこの頃、このように居場所カフェの存在の意義を「科学的に」(原因究明して一般化する)位置づけることとは別に、もっと端的に評価する言葉があってもいいのでは、と思う。

それは、 それ(校内居場所カフェ)があるだけで、生徒はもちろん、教師もなんとなく元気になってしまう存在かもしれない、というような意味において、存在価値を示してしまう存在。

それは日常的にはたいした意味を持たないが(高校であれば単位とか出席とかにはまったく関係ないが)、それがないと単位とか出席とかのモチベーションを形成できない存在。 

その学校に、「あそこにはよくわからないけど楽しそうなカフェがあるっぽいから、もうそこに行くしかないか」と10代に思わせてしまう存在。 

それは、 灯台 のようで灯台ではない。そんな、まわりを明るくしまくるちからづよいものでもない。 

 それは、 旗 のようで旗ではない。

そんな、その学校を代表するものではない。もっと地味なものだ。

けれども、それがあるとなんとなく笑ってしまう、なんとなく元気になってしまう、また、それを実際目にすると爆笑してしまうかもしれない、変な存在である。

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それがなんなのか、僕は、自分の事務所のスタッフとわりと時間をかけて考えてみた。

その結果、そのイメージに最も近いものが現れた。 

それが、あの岡本太郎がつくった、

太陽の塔

なのだ。

あの、大阪になくても全然いいのだが、それが大阪からなくなってしまうともうそこは大阪ではなくなってしまう存在。

モノレールに乗っていてそれがいきなり現れた時、そのバカバカしさについつい爆笑してしまう存在。

けれども、その明るさ故に、「今日も僕は(私は)生きていていいんだ」と思わせてしまう存在。 

それが、

太陽の塔

である。 

 居場所カフェは、僕には、学校のなかにある太陽の塔のようなものだと説明された時、ものすごくしっくりくる。 

芸術は爆発なのかもしれないが、太陽の塔はその周辺にいる人々をあたたかく包み込み、時々その潜在的可能性を見出し、少なくとも、10代後半の人たちをポジティブに肯定し続ける。

それは、10代後半の人々の心を、やさしく包み込む。 
 
そんな、太陽の塔のような唯一無比の存在感が校内居場所カフェにはあるように僕には思え、科学的評価云々はさておき、芸術的哲学的評価がそこにあればいいんじゃないか、なんてこの頃はよく思う。
                  太陽の塔