「ひとり親」は差別用語

 ■親とは、親s

 

ひとつのことばを抽出して文脈関係なく「それは差別用語だ!」と指摘するのは、いわゆるポリティカル・コレクトネスになってしまうので、僕はそうしないよう気をつけている(ポリコレに関してはこの記事等参照情熱のポリティカルコレクトネス、その弱点)。

 

だが、生活の中に根付く差別は潜在化している。それはことばによって意味をもち、我々は日常の中で知らずしらずそのことばを使っている。

 

そんな場合、僕はそのことばが含む差別的ニュアンスを指摘するよう心がけている。偽善的正義のポリコレではなく、潜在的に人を傷つけることばとしての差別。その差別は、差別されるほうもあまり気づかないまま日々発動している。

 

その一事例が、

 

「ひとり親」

 

ということばだ。「シングルマザー」などもその一連の群に含まれるだろう。

 

精子卵子を抽出し人工的に結合させる形態が普通の出産システムになるであろうはるか未来世界では、この「ひとり親」は別に差別用語までにはならないかもしれない。その時は「親」という概念もだいぶかわっているだろうから。

 

けれども、そんなはるか未来ではなく、ほとんどがセックス後にふたりの人間が親(母と父)になる現在、当たり前だが親は「ひとり」ではない。

 

虐待や貧困、その他の事情で、生まれてきたものの自分のふたりの親とは生き別れになっている子どもにとっても、「実の親」はふたりいる。現代社会ではまだ、決してひとりで子どもをつくることはできない。

 

親とはつまり、親sなのだ。ふたり親がいて初めて子どもが生まれてくる。

 

■「ひとり親」は、「きみの親はひとりだけなんだよ」と強制する

 

ところが現在、我が国では「ひとり親」という言葉が普通に流通している。

 

毎年20万組の夫婦が離婚する離婚大国の日本は世界でも珍しい「単独親権」システムをとっているため、父と母のいずれかに子どもは引き取られていく。

 

離婚するくらいだから多くの元夫婦は関係性が悪いため、それら元夫婦は互いのコミュニケーションを遮断する。

 

だが、親子の愛情は普遍的で基礎的なものである。だから、子どもと別居することになった親(父だけではなく母もこの立場に追い込まれている)は、欧米のように毎週子どもと会い夏や冬は長期休暇を子どもと過ごす生活形式を求めている。そのために親権に関しては平等であることを求めている。

 

これが共同親権と共同養育の思想とスタイルだが、日本はこの形式から巧妙に遠ざかっている。

 

それらの理由はこれまで僕もたくさん書いてきた(たとえばこの記事→

「僕たち子どもの声はまったく届かない、単独親権制度は、子どもの立ち場にたったものではないんですよ」 (1/2)

 

そして現在、国のシステムが共同親権に変化するであろうことも書いてきた(チルドレンファーストの地点にみんなが立って——共同親権vs.単独親権の、恩讐の彼方に

 

そう、時代は共同親権へと移行しつつあるのだ。

 

そんな時代の変化のなか、「ひとり親」がまだ堂々と流通している。

 

そしてそのことで、親の離婚後にどちらかの親と生活することになった子どもにとって、「自分の親はひとりなんだ」と思い込まされ続ける。

 

また、別居することになった別居親の存在は隠され潜在化させられる。