ゴリラというヒトを差別する

 

■西成区釜ヶ崎区を訪れた某ライター


当初は、話題の(大阪市)西成区釜ヶ崎を訪れた某ライターのブログを題材に、ここでは書こうと思っていた。


けれどもその記事はホームレスや労働者差別が露骨すぎて読んでいる間本当に僕は吐き気を催した。


そのライターは、西成で生活するある男を、まるで動物園にいる哺乳類と同じような感じで観察し、接する。


見方によっては、サイード『オリエンタリズム』に出てくる「イメージとしてのアジア人」のような扱いで西成の男を描写するが、サイードほどあからさまに「あっちの人」扱いしていない。


自分は大阪を愛する。そして、西成区に象徴される「ザッツ大阪」も「愛している」が、星野リゾートが進出してくる西成も支持する(その記事は、そうした新今宮/西成の開発された姿を礼賛する代理店依頼の広告記事である)。


基本的にその記事は、「旧世界」の西成を捨て、「新世界」のニシナリを押すものである。


その題材として、西成で生活する男たちをオリエンタリズムの極地である、たとえばゴリラを観察するような目で描く。


これほど露骨な差別を、僕は見るのは初めてだった。ちょっと吐きそうになったくらいそれは酷かったので、記事の引用もしたくない。


■動物園の動物


その差別は、「21世紀の新しい差別」というほど生やさしいものでもない。


サイードの記述やスピヴァク他のポストコロニアル哲学は、90年代から思想界では一般的になっている。


オリエンタリズムを知らずして、マイノリティの世界は語れない。


今回の記事は、当然サイードなんて知らないんだろう。当該ライターの思想的是非を論考するのは時間の無駄だが、ポイントは、「これは差別ではない」とおそらく確信しながら差別記事を書くことのできる感性が、このライター以外にもたくさん存在することだ。


それは、その記事に「いいね!」が数百押されたらしい(僕は直接チェックしていない)ことからも伺える。


現代の日本の何割かの人々は、「差別」を忘れてしまっている。


自分の世界観の外にある人々について、動物園の動物を見るような感覚で描写しても(これが差別だ)なんらおかしくは思わない感性、そしてその感性に対して「いいね!」してしまう感性が幅広く形成されてしまった。


■新しく残酷な差別


一方で、その記事はネット上で炎上し、僕の批判と同等あるいはそれ以上の怒りとともに取り上げられている。


それら批判記事を見ていると、まだまだ日本も捨てたものではないと思う。


前回当欄で書いたように、現在の我が国では、従来の「リベラル」が重視してきた「平等主義」が、「全体主義」に流れようとしている(「汚濁した社会」を新世界リベラル人は嫌う〜平等主義から全体主義へ)。


その全体主義化の気持ち悪さと、今回取り上げた「差別」は僕には同じ地平にあるように思える。


ポリティカルコレクトネス、タテマエとしての平等主義は、表面的には差別を遠ざける。けれども、その平等主義は容易に全体主義に変化してしまう脆弱さを持つあまり、差別を熟考しない。


理念として、それはまさにポリコレとして、差別は「してはダメなもの」と人々に刻印する。


けれどもその刻印は、あくまで軽い理念的なもの、要するに「ポリコレ的なもの」であって、現実に差別されて沈黙するサバルタン〜真の当事者の思いを想像することができない。


西成区で生活する男の傷み〜その痛みは自分より階級的上位にある若者に媚びへつらう痛みでもある〜を、ポリコレライターには想像できない。だから、男の仕草を、ゴリラの仕草を観察するように描く。


最悪だ。


実は、この最悪さは、そのライターだけではない。ここでは実証するのは遠慮しておくが、霞ヶ関の高級官僚にも同様の価値を抱く人々はいる。


我々が知らない間に、「新しく残酷な差別」を身につけている人々が日本には数多く存在する。