「夢」に似たオンラインコミュニケーションでは、我々は「孤独」に追い込まれる


■オンライン会議では変になる


以前から僕は、zoomなどを用いてオンライン会議等をするとき、何か変な感覚に陥っていた。


その感覚の「哲学的」理由がこの頃わかった気になったので、簡潔に書いてみる。


哲学者のデリダは『ユリシーズグラモフォン』という小さな書物の中で、「ウィ、ウィ」という不思議な概念を提案している。


「ウィ」とは英語の「イエス」のことだが、デリダのいうウィは普通言われるところのイエスではなく、メタレベルでのウィだ。


相手の言葉に対して「イエス/はい」と返事するのが普通のウィだが、メタレベルのウィとは、


「はい、あなたはここにいてもオッケーですよ」


という、これから始まる2人のコミュニケーションを承認する意味での「イエス」のことを指す。


「あなたと私のコミュニケーションがこれから始まりますね、こう思うこと自体がすでにふたりのコミュニケーションが始まっていることの印ですよね。

私は、そのコミュニケーションが存在してしまっている、そのこと自体を承認します」


この、コミュニケーションが成り立つための「土台」がすでにあることを認めること、これがデリダの言う「ウィ」のレベルだ。


 「前提と継続と相互干渉のウィ」


ただし、このウィは、もう一つウィを伴い、「ウィ、ウィ」としてあるとデリダは語る。


このあたりを哲学者の高橋哲哉氏は以下のように説明する。ちょっと難解だが引用してみる。


この根源的なウィ、根源的な約束は、それ自身すでに他者の呼びかけへの応答である限り、じつは根源的とはいえず、他者に先立たれている。私が実際の発話以前に、またあらゆる発話とともに、無意識のうちにウィを発しているとき、私はつねにすでに他者からウィを発するよう求められているのであり、その呼びかけを無意識のうちに聞いてしまっているのである。私のウィはつねに第二のウィで、他者のウィに先立たれている『デリダ』高橋哲哉/講談社より、p313


いかにも哲学者らしく難解だが、僕は単純に、


①コミュニケーションの前提としてのウィ


がまずはあり、それを維持するものとして、


②それを維持するウィ


があると単純に考えることにしている。加えて、


③常にすでに相互干渉している、それらのウィ


という3つ目のオーダー(水準)も隠されていると思う。


いわば、①は「前提のウィ」であり、②は「つづけるウィ」であり、③は「相互干渉するウィ」とも言い換えることができる。


この、「前提と継続と相互干渉のウィ」が、我々のコミュニケーションにはあらかじめ含まれている。


高橋氏の言葉で言うと、


「この根源的なウィ、根源的な約束は、それ自身すでに他者の呼びかけへの応答である」


そしてこれは、


「他者に先立たれて」おり、「私のウィはつねに第二のウィ」


ということになる。


■「線」ではフォローできない


この、「前提と継続と相互干渉のウィ」は、オンラインという、まさにその電子的なか細い「線」ではフォローしきれない。


その線の細さでは、「前提と継続と相互干渉」の水準を捉えきれないのだ。


これはおそらく、身近な人とのオンラインコミュニケーションでも同じだと思う。


従来の電話で長時間しゃべる、FacebookやLINE等のSNSの「テレビ電話」サービスを用いて交流する、zoomを用いてテキストやパワポ資料なども活用する等、あらゆるくふうをしても、何かが物足りない。


それは、そうしたオンラインコミュニケーションには、「前提と継続と相互干渉のウィ」が少ししか存在しないからだ。


いわば我々のコミュニケーションは、メタレベルの「前提と継続と相互干渉のウィ」がなければいけない。


前提と継続と相互干渉のウィがなければ、それらのない「夢」に似たオンラインコミュニケーションだけでは、我々は、人は、「孤独」に追い込まれてしまう