世界でただひとりだけのその子と出会う

 今はもう、時間的にすっかり訪問支援はできなくなってしまったが、90年代末は1日に2件、1週間で多いときに12件訪問していた。相手は、ほとんど中学生の男子。当時はまだひきこもりという言葉は一般化しておらず、全員が不登校/登校拒否というレッテルを貼られていた。
現在、ひきこもりは、「性格的な背景をもつ人」「発達障害的な背景をもつ人」「精神障害的な背景をもつ人」の3パターンに大別されている。いずれも典型事例は極めて少なく、ほとんどが「それっぽい」あるいは「3つの要素が微妙に混じっている」人がほとんどだ。
今から振り返ると、それは当時も同じだった。
だが当時は残念ながら発達障害という概念はなかった。ほかの不登校の子であればこの体験を通過できれば元気になるのになぜかなれない、という子どもが一定の割合当時から存在し、それらが今から思うと発達障害にカテゴライズされるのだと思う。当時は、学習障害という概念がわずかながら浸透し始めた頃で、既存の支援組織(これでさえほとんどなかったが)では持て余す子が、学習障害支援団体(塾のようなもの)に通っていた。
また、精神障害をほとんどの不登校支援者は対象としていなかった。それどころか、「登校拒否/不登校は病気ではない」として、精神障害的要素を含む子どもたちを排除することで不登校支援は始まっていた。これによるマイナス効果ははかりしれない。少し薬を飲めばちょっとだけ安心できて登校できる子は現実にいる。不登校は病気ではないとして精神科的支援を排除してしまうと、子どもの登校可能性をはじめから排除してしまう(まあこれにも理由はあって、当時は、精神医療による子どもへの過剰対応によって体調を崩した事例が少なくなかった)。
このように、発達障害の概念はなく、子どもへの精神医療的支援について賛否両論がある、という状況の中、僕は不登校の子どもへ訪問支援をしていた。ずいぶん怖いもの知らずな姿勢だが、当時の支援状況はそれでも許された。とにかく、不登校になってしまうと、行政のかたちばかりの支援(親面談と学生の訪問支援)以外は何も支援メニューがなかった。民間のあんちゃんが、独自の考えで数例訪問したって誰も文句は言わなかった。また、親御さんにすれば、そんなあんちゃんでもいいから、家に来てくれる、自分の子どもの遊び相手を求めていた。
僕としては、その子と同じ子は世界に他にいない、その子は世界でただひとりだけのその子なのだという、ある種の直感的確信をもとに会っていた。それは、さまざまな知識を得た今も変わらない。たくさんの専門用語でその子をくくることは可能だし、それはあるレベルでは絶対必要だ。だがちがうレベルでは、そんなものなくっても子どもとは出会える。
事前に親御さんから聞いている知識を越えて、現実に目の前にいる子どもはさまざまな躍動感をもって迫ってくる(静かな生命力というようなものもある)。欝、強迫、不安、そのような言葉たちがむしろ邪魔になってしまうほど、目の前の子どもはいきいきと現れている。
僕はそのような感じが好きだった。(つづく)

※当連載は、「支援の現場」や「支援システム」といったいくつかの項目をサブタイトルに、毎週、各項目を行ったり来たりします。