転回点

タイトルも少し変更したように、当ブログをもう少し有効に使用することにした。
週刊で更新することとし、プラッツホームページとももう少し親和的にリンクできるようにしたい(あと、ツィッターも)。

手術後療養しているとき(現在も療養中なのだが)、最も接したメディアはインターネットだった。本やDVDは病人にはつらい。それらはエネルギーに満ちており、「死」に片足突っ込んだ人間からすると、遠いところで響く船の汽笛のようだった。
それに比べると、ネットの文字はハードルが低かった。あとは新聞記事。いずれも普段は流し読みだが、この秋はこれらしか読めなかった。この習慣は今も続いている。

ネットや新聞は、テンションが低い人間にもやさしく開いてくれている(中身はハードだが)。
あと、まだきちんとマスターしていないのだが、ツィッターを(主に読者として)始めたことも大きい。いろいろな人をフォローしているだけで、いろいろな動きが伝わってくる。これは、病人である僕の大きなリハビリとなった。

今回は病気をきっかけとして、ネットのさらなる世界を知ることができたのだが、せっかくなので僕のリハビリも兼ねて、もう少しネットを活用していこうと思い始めた。
紙媒体であるプラッツ機関紙「ゆうほどう」連載(私たちのスモールステップトーク)や「月刊少年育成」の連載(僕達のドーナツトーク)、ネットでの当週刊連載、そしてツィッターでの不定期つぶやき(文字数が限られているので主張に限界がある)、これらを重層的に活用していき、僕の(あるいはプラッツの)トータルな主張としていきたい。

ネットの日記で、匿名で愚痴を言ったり趣味を述べたりする時期はとっくに終わっている。
ブログは、実名で意見を述べていく場と化した。それだけ利用者が成熟したのかもしれない。

とはいっても、病気療養中ですので、あくまでもリハビリとして始めたいと思う。一回目は、淡路プラッツの機関紙「ゆうほどう」の200号記念に書いた原稿を以下に流す。



“転回点”
田中俊英

 みなさま、ご心配をおかけしています、田中です。ゆうほどうがちょうど200号を迎えるということで僕も原稿を依頼されました。
 以前の本紙で編集担当がお伝えしたとおり、僕は8/19に脳出血で倒れまして、近所の淀川キリスト教病院に緊急入院、そして手術を受けました。死か、たいへんな片麻痺か、現在のような身体的に問題のない状態かの3つの選択肢のうち、幸いなことに三番目の結果になりました。この間、多方面の方々にご心配をおかけしたこと、またご支援いただいたことに御礼申し上げます。ありがとうございました。
 現在僕は、年明けからの復帰を目指して、実家の香川県と大阪を行ったり来たりして療養に努めています(完全復帰は春頃かもしれません)。この間、非常にたくさんのことを考え、また、自分自身の“生”ということについて、哲学的思弁的なものではなく、まさに“すぐそこにある死/問題”として考えてきました。これらについては、今後追々文章にしていくつもりです。
 ただ、こんなシンプルなことをよく考えることは事実です。僕は、10年とちょっと前に父を亡くしたとき(そしてそこから短期間に続く離婚やプラッツへの就職という出来事をひっくるめて)、「これは一つの転回点なのだなあ」としみじみ考え込んだことをよく記憶しています。ただ、あれら一連の出来事はなんて言ったらいいのか、まあ一言で表すと、「大人/自立」への本格的帰結点だったんだなあと思います。いろいろな僕をめぐる出来事が僕を大人へと完全に導いてくれた、そんな気がするのです。
 今回の出来事はそれに対して、「死あるいは人生の終着点」に向かう本格的出発点になったと明確に意識しました。僕は自分で言うのもなんですが、この10年間、プラッツのためだけを思って必死に生きてきました。すべてのことのなかでプラッツが最優先だったのです。その動機の第一は、2000年の5月に急死した元塾長・蓮井学さんへの恩返しということがありますが、僕自身の自己実現(きちんとしたNPOをつくりあげる)も大きな要因だったことも事実です。
 そんな、塾長や代表が自己犠牲的に団体に奉仕するという習慣をこの機会に改めたいと思います。だって、いつのまにかプラッツは「きちんとしたNPO」になっているのですから。正直いうと僕は、父が死んだ60才で人生を閉じてもいいやと思っていましたが、今回の出来事で、80才まで(いや85才まで)生きたくなりました。きちんとしたNPOとは、職員が自己犠牲的にならないことでもあると思います。その転回点として、今回の200号はあるような気がしています。★