「当事者」という言葉 〈病気のあとで〉1

自分が脳出血という重い病気になっても、まわりが心配する重みに比べて意外と当人はその重みがなかったりする。
でも実際は、昨年(2010年)の8月19日に倒れて即手術を受けた後、10日間はまったく記憶がない。あとで聞くと、その間も僕は、看護師や医師相手に滔滔と仕事の展望について意味不明のことを語りつくしていたらしい。そうしたことも含めたたくさんの迷惑をまわりにかけてしてしまった。
そしてその間、僕の記憶は完全にない。46年間生きてきて、10日間も記憶がない体験は初めてだ。9月になってから、医師に、「死か、重い麻痺か、今の状態かの3つのいずれかだった」と言われた。
その言葉あたりから以降の記憶はある。そしてそのときに自分に言い聞かせたのが、「これからは人の言うことをきちんと聞こう」ということと、変な話だが「親孝行を自分なりにしよう」だった。なぜそんなことを突然自分に言い聞かせたのかは今もわからない。
そしてそれから早くも5ヶ月が過ぎた。この頃は、段階的に「あ、また復活してきた」みたいなノリで自分の回復を感じている。具体的にどこがというのではなく、たとえば歩いているときに、「あ」みたいな感じで発見がある。自分の内のほうから何かがせり上がってきて、どすん、と体の中のどこかに座りこむというか、内なるデッサンの上にまたひとつ新しい色が増えたというか、まあそのような感じで「またオレ、ちょっと戻った」みたいに感じている。
記憶が清明になってきた9月初め頃、医師の言葉を記憶する前からすでに、「こちら側にいる」実感のようなものにすでに包まれていた。これからいろいろな人の闘病記を読んでみて僕の実感と比較してみようと思っているが、僕の場合、「あちらかこちらか」の分かれ道をたどって今はその「こちら側」にいるという、感覚は確かにあった。それは、生きているからよかったという意味作用を伴ったものではなく、強いて言うと「このようになったのならこのように生きよう」というような「受け入れ」の感覚だった。
だから、まわりの人からみると、やけに淡々としていたかもしれない。

そのような思いで昨年の秋頃は過ごしていて(まあ今も深い部分では変りないが)、ある日突然に思ったことがあった。
それは、「ああ、オレはオレという人生の当事者なのだなあ」ということだ。
僕は思春期の頃から世の中を斜めから見る癖がついていて、それは自分に対しても同じだった。常に世の出来事や人々を斜め(上)あたりから見、観察し、批評し、余裕があれば書く。同時に、自分に対しても客観的に見つめ、自分を分析し、語り、そして余裕があれば書いていた(まあ厳密に言えば今もそうなんだが)。言葉としてはメタレベルでもなんでもいいが、もう性格や人格という言葉に入れ込んでいいくらい、このような傾向が僕にはあった。
でも、昨年の秋頃、あれは何をしていた時だったか忘れてしまったけど、それこそ唐突に、「あ、このオレの人生の当事者はオレしかいないんだ」と稲妻に打たれたように思い当たったのだった。何を当たり前の事を、あなたの人生はあなたのものではないか、と多くの人は笑うだろう。でも僕にはこれは大発見だった。デリダもドゥルーズの本も、カントやハイデガーの本も、村上春樹や夏目漱石の小説も、そして阪大臨床哲学の鷲田先生の講義や本をいくら読んでも聞いても得られなかった「当たり前」の実感だった。
そしてそのとき、「そうか、オレも“当事者”なんだ」とつくづく思い至ったのだった。病気の当事者という意味だけではなく、僕固有の人生の当事者という意味も含めて。

もう5年以上前、ひきこもりを体験した人が語り始めることができるようになった瞬間からそれは当事者ではなくなる、と書いて一部の人の顰蹙をかったことがある。あれは、哲学者のスピヴァク(デリダ派)の『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房)から都合よく拝借したものだった。
本当の当事者は問題の最中に放りこまれているから自分が何者であるかを表現することが難しい。自分が何者であったかをきちんと表現できるのは、その問題の当事者ではなくなってから(僕は「体験者」と表現した)である、とたぶんスピヴァクはその本の中で言いたかったのだと思う。スピヴァクはインドの被差別階級を対象にしていたけれども、僕はそれをそのままひきこもりに応用して語り、書いた。そして何人かの方を傷つけた。
その理屈でいうと、当事者と名乗り始めた僕も、脳出血“体験者”になったからこそ、そうした発言が「事後的に」できるということになる。
けれども、手術後「こちら側」にいてしまっている僕からすると、スピヴァクの使う当事者とは別の意味で、このサイドを死ぬまでこの自分の視線から見続け歩き続けるという、哲学的に言うとたぶん実存主義的な当事者もあっていいのでは、と思うようになっている。ああ、実存主義なんてどうでもいい。オレはオレの人生の当事者である、というこのポジティブな実感、ここからすべてが始まることは本当に気持がよく、清々しい。
こうした「当事者」があるとするなら、それがたとえひきこもりやニートという「当事者」意識であっても、かまわない。一生ひきこもり当事者意識を持ち続けたとしても(まあ現実には就労していることが多く、自認レベルだろうが)、その自分の地平の視線で歩き続ければいい。僕も同じ「当事者」として歩き続ける。★

◆田中の近況
僕の病気については右欄をご参照ください。
上に書いたとおり、かなり回復してきたと思います。この調子でいくと、春からの本格復帰も計画通りにいけそう。ただ、1日の耐用時間はまだ3〜4時間くらいか。間、1時間とか2時間休息すれば、もうちょっといけますね。でも、この病気は過信が禁物。過信するのが僕の特技なのに〜。

◆この連載は、〈支援の現場〉〈支援の環境〉〈支援の対象〉、そして〈病気のあとで〉等を行ったり来たりしながら進めていきます。

※田中俊英 たなかとしひで
編集者、不登校児へのボランティア活動をへて、 96年より不登校の子どもへの訪問支援を始める。00年淡路プラッツスタッフ、02年同施設がNPO法人取得に伴い、代表に就任。03年、大阪大学大学院文学研究科博士前期課程(臨床哲学)修了。著書に『「ひきこもり」から家族を考える』(岩波ブックレット739)、主な共著に『「待つ」をやめるとき〜「社会的ひきこもり」への視線』(さいろ社、05年)、主な論文に「青少年支援のベースステーション」(『いまを読む』人文書院、07年)等。