「叱ること」は本当に難しい 〈支援の現場〉4

僕は実生活ではほとんど怒らないが、実際に怒るときは結構恐いらしい(と、これまで僕に怒られた人たちは言っていた)。僕にとって「怒る」とは、年に一度あるかないかの珍しい出来事だと自覚しているのだが、それでもプライベートではもう少しの頻度(年に4回くらいかな)で怒っているそうだ。
「そうだ」というのは、自分では怒っているという自覚がないから。自分ではなんというか、冷静にかつ淡々と指摘しているつもりなのだけど、端から見ているとそれが「怒っている」ということになるみたいだ。
でもこれはプライベートのこと。もちろん手を出したりするのは論外にしろ、私的領域では時には感情を爆発させてもよい。というか、暴力や超大声はダメだが、時に少し感情が荒ぶる程度の怒りがなければ、私的領域では相手に失礼だとも思う。それは非常に疲れることでもあるので、日常的には僕はできないが。

これらはプライベートでの話。こうしたプライベートでの「怒り」と、対人支援(対子ども・若者)仕事の「怒り」はまったく違う(今回はカウンセリングとコンサルティングとの違いなど基本的なことは飛び越えて、日々子ども若者支援の「現場」で起こっていることから始めている)。仕事では、「怒り」を単純に表面化すべきではないという点でまったく違うと僕は思う。
仕事では「怒り」は単純に声や動作に出してはいけない、と僕は考える。その怒りは支援者の自分というフィルターを一度通して、「叱り」に変えるべきだと思うのだ。
怒ることと叱ることはどう違うか。それは単純で、叱ることには教育的配慮が含まれている。教育的配慮とは大げさで、その子ども/若者のことを考えてきちんと怒ってあげるということがここでいう「叱る」ということだ。
反対に「怒る」ことは単に感情の爆発に近い。感情に計画性がなく、他人のためというよりは自分のため(ひとことで言うとストレス発散のため)に「怒る」。プライベートではこんな怒りも(手と大声さえあげなければ)別に悪くはない。だが仕事では、こうした怒りはほとんど意味がない。なぜかといえば、そうした自己満足の怒りはまったく相手に響かないからだ。

たとえば、何かの作業をともにしていて、子ども/若者がびっくりするようなことをしたとする(いたずらのようなものを想像してください)。そのことが、いかに他人に迷惑をかけているかをその子/若者が気づいてなかったとする。
怒る場合、こうした分析の前にすでに怒っているだろう。叱る場合、こうした「他者への迷惑」ということを把握しているだろう。怒りとは往々にして自分のストレスがその怒りのガソリンとなっており、目の前のその子ども/若者の動作が発火点となっている。だから、自分が何で怒っているか、現在進行形で把握していない。
叱ることは「教育(大きく言えば支援に含まれる)」に含まれているから、それほど直情的にはできない。僕であれば、「よし、これから叱るぞ」と自分に気合いを入れてから叱る。そして、その叱っている意味も相手にできるだけ伝わるよう言葉を尽くす。叱りながら、はっきり意識的に相手を教育している。

こんな単純なこと、そして支援者であれば当たり前のこと、当たり前すぎて教科書にすら載っていないことをわざわざ書くのは、たぶんこんな単純なことを現場で忘れてしまっている人が大勢いると思うからだ。
また、たとえばNPO法人NOLA代表の佐藤透さんのような「叱りの達人」の表面だけを盗んで、自分が叱りの達人になった気になるのもよくない。実は僕は未だにうまく叱れないので、仕事ではできるだけそうしたリスクは犯さないようにしている。佐藤さんがあれだけ叱れるのも、24時間子どもたちと生活を共にしており、「叱ることは叱る、フォローすることはフォローする、そしてほめることはほめる」ということが徹底できるからこその、あの叱りなのだ。
表面的な叱りの模倣は、それは単なる「怒り」として他人には見えてしまう。上手に叱れるようになるためには、日々の精進が欠かせない。★

※田中の近況
この2月19日で、倒れて以来半年となりました。数時間で脳がぼぉーっとしてくる(血圧が上がっている)というのは変わりませんが、内的「力」というのでしょうか、生命エネルギーのようなものは明らかに満ちてきたと思います。日にち薬というのは本当でした。
その自分へのご褒美として、この前久しぶりにヨドバシカメラに行って買い物をしました。何を買ったかというとレコードプレーヤー。1万円もしない、シンプルなものです。でも、ずっと欲しかったもの。
帰って、プレーヤーをセッティングし、実家の香川県から持ってきていたレコードをかけてみました。こうしてきちんとレコードを聞くのは、高校生以来ほぼ30年ぶりです(僕が大学に入ってすぐにCDが普及した)。針でレコードを傷つけないように、慎重にターンテーブルの上にのせました。
デビッド・ボウイの『ロウ』やスクリッティ・ポリッティの『ソングス・トゥ・リメンバー』が流れてきたときは、何となくジーンとしましたね。今、それらはitunesで購入しパソコンに入れて時々聞いているものです。でも、レコードから聞こえてくるそれらの音は、別の音のように思えました。ジャケットからゆっくりと出し、ターンテーブルに慎重にのせ、スイッチを入れる、このような動作を、レコードを聞くたびに高校生の僕は繰り返ししていたわけです。そして出てくる音。その音の中にはたとえば、ジョンレノンの「マザー」という叫びも含まれていました(音量調節に失敗して実家で飛び跳ねてびっくりしたことは今も覚えています)。
大切に扱い、やっと出てきた音(そしてその音は、思春期の僕にとっては本当に大切なモノでした)。僕が音楽ファンになったのも、ああした一連の動作があったからなんだなあ、と実感したわけです。今の若い人達が音楽から離れてしまったのは、商業主義に走ったコンテンツもありますが、レコードが消滅してしまったことも大きいのでは?