長くて短い人生の中で、自分を客観視するときと、客観視をやめるとき  〈支援の最前線〉4

発達障害支援の山場は、出会いの当初からいきなりやってくると僕は思う。それは就労のつきそいでも生活支援の計画でもなく(当然それらも大切なのだが)、親御さんとの面談でアウトラインを知り、当人と出会って確信を抱き、そこからどう告知・受容へと導いてくか、ここが最大の山場だと僕は考える。
アスペルガー症候群・成人のADHD・軽度の知的障害とその障害の種類にかかわらず、本人よりも親御さんのほうが受けるショックは大きいように思う。本人にとっては自分の診断名よりも、日々の生きづらさの一つひとつの出来事のほうが重くて大きいようだ。診断名のような客観的な見方よりも、その日、今、他人との間で起こるストレスとどう向き合うか。小さい子どもであれば、泣いたり暴れたりするだろう。成人の場合は、欝になったり暴力が出たりするだろう。
このように、本人に慎重に告知・受容をすすめてもそのリアクションが親御さんよりは弱いため(それよりも当人には解決しなければいけない日々の多くの悩みがあるため)、告知・受容の作業(実際は医療機関で告知されるのだが、受容には長い時間がかかる)を対本人には時々さぼってしまう誘惑にかられる。そして、解決しなければいけない日々の目の前の悩みを解く作業をいっしょになって手伝うことになっていくのだが、告知・受容の作業はやはり怠ってはいけない。
自分のその日々の悩みは、21世紀初頭の現在では“発達障害”と名付けられた特徴から生じており、そこには一定のパターンがあるということを「客観的に」知るということは、当人に納得と落ち着きをもたらす。この納得と落ち着きを得るため、告知と受容は粘り強く行なっていく必要がある。
こうした粘り強さを全国の支援者は日々(今日も)行っている。だから、評論家の議論にあるような「発達障害の概念の良し悪し」を議論する暇は現場にはない。でも悲しいことに現場は現場で余裕がなく、また言語化が苦手だったり、言葉としての対応は後回しになる。そして評論家は言葉を操るプロであり、支援をしなくてもいい。
ただ発達障害概念の良し悪しはこれからも検討し続けなければいけないことは確かだ。けれども、今のところは、この概念によって納得と落ち着きを得る当事者(と親)がいる。

つまり、「土台(発達障害の良し悪し)」を現場は問う必要はない。現場は、土台を利用してその上にいる人達に安定を与えることが仕事だ。その安定を導く技術が、発達障害の場合、障害受容への絶え間ない支援ということになる。
そして、納得と落ち着きという安定を得るキモは、自分への客観視というある種の技術だ。
僕の発達障害支援は、この「自分の発達障害に関する客観的な捉え方」をその人なりに会得してもらうことを手伝うということに尽きる。

さて、僕も今月の14日で47才になる。最近よく考えるのは、この47年間は自分を客観視し続けてきた人生だったということだ。いや、正確に言うと、思春期以降、肥大化して時に暴走する自我をコントロールするために結果として客観化の技術を磨いてきたということになるだろう。
ここでいう客観化は、上の発達障害の客観化よりも広い意味で述べている。だが、自分の特徴を知り、そのことで自分をコントロールするという意味では同じだろう。
日常的な自分の客観化は、感情的なぶれを防いできた。よほどのことがないと怒ったり叫んだり泣いたりしない。というか、ここ25年で、人前でわんわん泣いたのは1回だけだ。怒ったり叫んだりは、自分で意識するよりはたぶん多めにしていると思う。それども、頭の中のどこかで醒めた自分はいる。こういう大人、珍しくはないはずだ。
何もいつも感情的でいようとは思わない。特に仕事においては、冷静さはいつも求められる。感情的であることと、いつも自分を客観視することはまた別の話。
また、自分が常に落ち着いていられる大人になったかというと、それはそれで自信はない。ただ、もう大崩れはないだろう。
大崩れがないのだとすれば、この頃は残りの人生が無性にもったいなく思えてきた。いつも落ち着いているのだから、このうえ客観視を導入してさらに落ち着く必要はない。もっともっと自分の人生にダイブしていこう。

発達障害に由来する生きづらさ以外にも、思春期特有の自我の揺れや肥大からくる生きづらさに対しても(だから発達障害の若者はこの二つが被っており、非常にしんどい)、自己の客観化は有効だと思う。その生きづらさと折り合ったあと、人生の中間地点を折り返した後に、自己の客観化を捨てる時が来るんだろうか。
他人に迷惑かけなければ、捨ててもいいかな。

※田中の近況
相変わらずツイッターとFacebookをどう捉えればいいか、悩んでいます。ツイッターはどうやら1日何十回も投稿しないといけないらしい。これははっきり言ってめんどくさい。やっている人はすごいです(仕事上での必然があるんでしょうね)。一方、Facebookはどうすればいいか根本的にわからない。「友だち」になってと声をかけといて、なってくれたことがゴールであとはほったらかしです。
でも、だんだん仕事に復帰し始めて、このふたつを後回しにしつつあるのも事実。もうすぐ4月だというのに。