丘の言葉 〈支援の現場〉5

週刊文春をいつもどおり買って読んだ。小林信彦とか伊集院静のエッセイを興味深く読んだ。文春は暇つぶしによく読むが、これらのエッセイに関しては病気の前はまったく読まなかった(嫌いだった)。が、この頃はなぜかよく読む。何が書いているわけでもないのだが、読んでしまう。
伊集院は今回の地震に関して、こんなことを書いている。
「絶望なんてものは、己がそう思っているだけでこの世に絶望なんてありはしないんだ。腹に力を入れて、歯を食いしばって、やっていけ」
人生相談みたいなコーナーで、どうやらこれは地震被災者の家族に対してのメッセージのようだ。ここだけ抜き出すとずいぶん荒っぽいけれども、全体を読むと、それほど暴言には映らない。むしろ、なぜかわからないけれども、読んでいる僕も含めて、「楽」になる。

人の話を聞くという行為には、カウンセリングとコンサルティングという対比があって、カウンセリングは「(苦しみを)聴くこと」、コンサルティングは「(情報等を)アドバイスすること」というふうに言い換えてもいいかもしれない。
このふたつを相手の状況に応じて使い分けることができるようになると、一人前のカウンセラーになっている。でもこれはなかなか難しく、相手がカウンセリングが必要な時に限ってアドバイスしてしまうことがしょっちゅうあるし、相手がコンサルティングを求めているときに限ってひたすら傾聴してしまったりする。この半年僕は面談の仕事を休んでいるけれども、春から復帰すれば、こうした勘違いをたぶん時々してしまうだろう。
このすれ違いは、親しい人間関係においてもよく陥ってしまう。一方はただ自分の愚痴を聞いてほしい。一方は相手を思いやるがあまり、ついつい厳しいアドバイスをしてしまう。誰も悪くはない。

でも、こうした使い分けがかったるくて邪魔になるときがある。そのときに思ったことが、そのまま相手に届く時がある。その時は、傾聴だろうがアドバイスだろうがどうでもいい。本当に「がんばれ」とか本当に「腹に力を入れろ」とか本当に「絶望なんてない」と思い、それが言うほうと言われるほうの状況と状態に奇跡的に合致したとき、丘の鐘のような言葉として言うほうにも言われるほうにも響く時がある。
たぶんこの奇跡には、生きることの背景にある死というものに関して、他人とその死の価値を共有しているという前提があるのだろうが、ここには分析はふさわしくない。奇跡的に訪れるその時が奇跡的に訪れてしまった悲しさにまずは沈黙する。そのあと、必要な人は、その奇跡に一時身を委ねる。★