「海外旅行」支援は、ある意味“劇薬”である② 〈支援の最前線7〉

週2刊ブログ宣言をしたことだし、今週はさっそく、朝の“すっきり脳”の時間にさくさくっと更新しよう。
前々回、「海外旅行」は、スモールステップ理論確立のための過程だった①というのを綴り、つまりはたぶん海外旅行というのは子ども/若者にとって何らかの「効果」はあるはずなのだが、まわりからはその効果が見えにくいということを書いた。
まわり(当時の僕のような第三者や保護者)からはいかにも楽しんでいそうに見える。けれども、海外旅行を体験した子ども/若者は、変わる人は明らかに変わる。一言でいうと、たくましくなる。まわりから見ると、スタッフは遊んだり酔っ払ったりしている。そして子どもたちは、時にはスカイダイビングみたいな荒業を体験させられたりするが、基本的には、そんなスタッフのあとをついていっているだけ。それなのに、帰国後、変わる。


この「変わる」という事実が圧倒的なだけに、保護者も第三者も何も言うことができない。というか、子ども/若者たちが以前より元気になって、保護者はうれしいし、(当時の僕のような)第三者は「たいしたもんだなあ、蓮井マジックだなあ」と感心してしまう。まあ、結果オーライだからいいか、という空気が流れている。
これはでも、今から思えばまさに「結果オーライ」だった。


スモールステップ的に言えば、海外旅行は、スモールステップの先の先、もしかすると、長期アルバイト(就労支援ステップ段階のゴール近く)と同じくらいの段階の支援レベルかもしれない。それくらい、海外旅行というのは、なかなかのタフネスを若者たちに要求する。故・蓮井学初代プラッツ塾長(しかし何度も書くけど、この「初代」とか「塾長」というのは厳つすぎる〜)はたぶんそこまで考えずに、まさに“天才支援者”的に、つまりは支援者としての野生の勘で、同行する若者たちを選んだのだと思う(それに加えて、当時やり手非常勤スタッフがいたから、彼ら彼女らのアドバイスもあったのだろう)。
それがたまたま当たった。いや、必然的に選ばれたメンバーだったということにして、当時、海外旅行にともに出かけたメンバーのうち、多くは社会的自立を成し遂げている。
それまでに、90年代プラッツのさまざまな支援メニューをこれでもかと体験させられていたからこその有効な海外旅行体験だった。つまりは、海外旅行に出発するまでにすでに、当事者も支援者もきちんと意識しないうちに、いつのまにかスモールステップを踏みまくっていた、ということだ。


僕も、プラッツスタッフになって3回、若者たちを海外に引率している。そのうち1回は2代目塾長(また「〇〇代目」「塾長」と書いてしまったあ、でもこれ以外に表現方法がないし……)のI君(現「NPO育て上げネット」スタッフ)に僕自身も連れていってもらった韓国・釜山旅行だったので、僕自身が中心で引率したのは、韓国・ソウルとメキシコ旅行だ(正確には、メキシコはNPOはぐれ雲に僕らが連れていってもらったのだが)。
僕が引率した2回を思い出しても、まさに「結果オーライ」だったと思う。いっしょに行った若者たちは、いつのまにか「ある段階」にまで来ていた。プラッツのさまざまなメニューを体験して、いつのまにかいくつものスモールステップを踏んでいたのだ。だから、これらの海外旅行も、結果としてはものすごくよい体験と支援になったと思う。


プラッツではおもしろいことに、僕の海外引率をラストに、若者たちは海外に行っていない。それと並行するように、「若者たちの社会参加の段階に応じた」スモールステップ支援が明文化され始めた。
(ひきこもっている家の中での)親子の会話に始まり、外出のつきそい、支援施設への引率等、細かい段階(スモールステップ)を踏んだ支援が理論化(理論的なものは右欄の『ひきこもりから『家族』を考える』参照)・実践化されることと並行するように、「結果オーライ」としての海外旅行は徐々に背景化し始めた。
今から考えると、「海外旅行」支援は、効くときは効くが外してしまうときは思いっ切り外すかもしれない、いわば“劇薬”だったと思う。やはり、スモールステップをゆっくりと踏んでいき、アルバイトもできるようになった頃、いわば「力試しも兼ねて」行なってみるのがこの種のダイナミックな体験型支援ということになるだろう。
それが成功すると、人生の中でも格別の思い出と経験になるのは間違いない。支援者の僕にとっても、メキシコのアカプルコ近くの海岸を、引率した青年と陽気に散歩したことは、一生の思い出となっている。★