「映画」はすでに死んでいる 〈映像〉

前回のくるりの記事で僕は退院後音楽が聞けなくなったと書いたが、そういえばもうひとつあった。
それは、映画なのであった。だが音楽と違い、映画には病気の前からその前兆はあった。見る映画といえば、大阪大学臨床哲学/カフェフィロのシネマ哲学カフェ関係の映画だけ。それも九条にあるシネ・ヌーヴォという単館系映画館でやるからそれなりに雰囲気があり、そのあとの哲学カフェとも重なって「映画を見る」というモチベーションを何とか維持できていたのであった。
ふだんの日常生活では、映画はほとんど見ず、レンタルものは1本30分がいくつか収録されたアニメか、『エヴァンゲリオン』みたいな大作映画のみ。いずれも、僕の趣味であるとともに、カウンセリングで知り合う若者たちとの共通の趣味でもある。いわば公私混同というか一挙両得な作品チョイスなのであるが、まあいわゆる普通の映画は見ない。テレビでやっている映画も、はじめから終わりまできちんと見たことはそういえば何年もない。


前回書いたとおり、僕は中学から『ロードショー』を定期購読していた田舎のおマセな少年であった。あの頃は日曜洋画劇場をはじめとして、とにかく隔日で夜9時から各局名作を放映していた。今みたいに、エンタメ路線の派手で単純なハリウッド映画とか、タイアップ基本でマンガが原作のまさに「マンガみたいな」邦画ばかりがテレビで放映されるのと違い、普通に名作がお茶の間で見られた。
僕は、四国の実家でこたつでゴロゴロしながら、「ゴッドファーザー」も「太陽がいっぱい」も「俺たちに明日はない」も「風とともに去りぬ」も「慕情」も「サイコ」も「エクソシスト」も「七人の侍」も「砂の器」も、おまけに「エマニュエル婦人」まで、ぜ〜んぶ、テレビで見た。カットされていようが吹き替えだろうが、そんなのはどうでもよく、そうした名作群を、最も多感で吸収力が高い年頃に見ることができたのはよかった。
だから、それら映画の背景の情報が知りたくて、毎月『ロードショー』を買っていたというわけだ。


だからその延長で大人になってからも、話題作は見るようにしていたけれども、この頃、「待てよ」と思うようになった。
もしかして、僕が映画を見なくなったのは、僕がおっさんになって(おまけに病気までして)映画を見れなくなったというのもあるけれど、もしかするともしかして、「映画」という機能そのものが、そろそろ時代的に終わってしまったものではないのだろうか、と思い始めたのだ。
当然、映画産業に関わる監督や評論家やコラムニストなどの映画評は毎日どこかで目にする。そして、テレビやネットでは最新映画の情報は洪水のように流れてくる。だから、「映画」は今も70年代と変りない主要メデイアであるような気がしている。でももしかすると、あの、2時間も同じ画面に拘束され、また2時間であるがゆえに「物語」に拘束されてしまう作り(ハリウッド的な分刻みの盛り上げか、単館系の2時間の必然性を感じられない冗長さ)は、時代に合わなくなってきているのかもしれない。パッと検索できてパッと必要なシーン(そしてその必要なシーンは何も「新作」である必要がなく、旧作にうなるほどいくらでもある)が見つかってしまう今の時代に。


それはとっくに、能とか歌舞伎とか宝塚とかオペラのようなジャンルになってしまったのかもしれない。決して廃れはしないけれども、大衆の中心的娯楽ではなく、一部マニアのもの。
我々には、メディアが大々的に押してくるものは、現在この社会で大々的に支持されているものだろうと勘違いしてしまう癖がどうやらあるようで、そのような大々的に押されているものの中には明らかに「旧世代」のものとなったモノが含まれるようだ、と最近僕は実感している。その一例が「映画」というメディア/器であり、そして「ロック」という音楽/思想なのだと思う。
映画もロックも、そのおかげで食べている人がたくさんいる(制作・流通・広告・興行等裾野は広い)。映画もロックも廃れてしまうとその人達も食べていけない。身も蓋もない言い方だが、関係者の人々の「生活」のために続いているジャンルがどうやらこの高度資本主義社会には循環的に現れるようであり、その典型的事例が「映画」や「ロック」なのではないか、とこのごろ思うようになった。
大衆の中心的娯楽からマニアックな娯楽に変化するには、おそらく消費者側にはだいぶタイムラグがある。タイムラグの間に、別ジャンルが育つのかな。★

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