鷲田清一先生の最終講義 8月4日@大阪大学

前回当ブログで書いたとおり、8月4日、鷲田清一・大阪大学総長の最終講義があったので、久しぶりに阪大に行ってきた。阪急電車石橋駅から続く「阪大坂」は、鷲田先生が総長だったこの間にきれいに整備され、以前は泥道みたいだったことなど嘘のようだ。
そのことは最終講義でも先生は触れられていた。「プライドとは他人から与えられるもの」という言葉をキーワードに、環境整備にまできめ細かく学生に配慮していくことで、学生はプライドを形成し、学生自身が自ずと変わっていくことを狙って、「鷲田ロード」は作られたと話されていた。

こう書いてしまうとなんのことはないのだが、その場で先生の話を聞いているといつも「なるほどなあ」と思わされる。それは僕が社会人院生だった00年代初頭でも同じで、当時は先生はまだ普通に講義をもたれていたから、余計そんなふうに感じた。
40人くらいが入る教室に学生はびっしりと座っており、鷲田先生がぼそぼそ話し始めると一言一句漏らさないようなスピードで学生たちはノートしていた。僕も負けずとノートするのだが、話があっちに行ったりこっちに行ったり、またいろいろな人の引用も非常に多く、板書もまったくされず当然パワーポイントなどないから、一見かなりとっつきにくい講義ではあった。
でも、そんなぼそぼそ声をとにかくノートしているうち、いつのまにか90分が過ぎているという、僕にとっては稀有な体験がそこにはあった。
そこで話されたことは数年後に何かの本に収められたりしているから、その内容自体はいつでも後追いできる。だが、あの「ノートしているうちにいつの間にか90分たっている」という感覚はわりと珍しい体験であり、今回もそのようなものを求めて参加したのであった。

鷲田節は相変わらず健在、気づけば2時間近い講義であった。その内容は近いうちに 書籍になるかもしれないのでここでは触れないし、まあ内容自体は聴きなれたものといえば聴きなれたものではあった。
僕にとっては、先生の主題の一つ「待つ」を取り上げたことについて、それまで「待つ」や「聴く」は無為の象徴であり哲学のテーマにはなりにくかったと言われたことが印象的だった。臨床心理学や看護学では、「待つ」「聴く」は(特に「聴く」は)堂々とした主題の一つである。それに対して哲学では「待つ」「聴く」はテーマとしては傍流だという。
なるほど、「主体」が常にテーマの本流である哲学だからこそ、「他者」の論理は逆に哲学関係者を魅了し続けてきたし、鷲田先生が世間に受けるのも近代の哲学本流だけでは世界は掴みきれないということが常識となってきたからなんだなあと僕は思ったのであった。

僕は以前、故・淡路プラッツ塾長の蓮井学さんと、今は沖縄で青少年支援をする元プラッツスタッフ金城隆一さんと三人で『待つをやめるとき』というブックレットを出した。あれは鷲田先生が訴える「待つ」とは別の次元にある「待つ」を取り上げたもので、我々の「待つ」はいわば世間一般で言うところの普通の「待つ」を指している。
子どもが不登校状態になったとき、親や支援者は何もアプローチせずに「待つ」だけでいいのか、待っているうちに子どもはいつのまにか30才になってしまったが、さらに待ち続けるのか。親御さんが持つこのような問いに対して、「それは『待つ』というよりは『放置』に近いのでは?」と問いかけたのが、我々の本の趣旨であった。
真の「待つ」アプローチとは、親は、「面談」「勉強会」「当事者グループ(親の会)」などを無理ない範囲で利用しながら、その時点での自分たち家族に対する「支援の司令塔」(ワーカーやカウンセラー)と相談しながら、日々動き続けることではないか、ということを僕はこの10年間一貫して訴えてきた。その出発点として、親が何も動かず単に見守るだけの「待つ」は「待つ」ではなく「放置」だということがあり、それを理論づけるものとして『待つをやめるとき』は書かれた。

これに対して鷲田先生の「待つ」は、もっと根源的で過激で、まさに哲学的な「待つ」だ。
それを一言でいうなら、「”他者”と交わる場所で、待つ」と言ってもいいだろうか。
「そう孤独だなんだと悩む前に、すでに我々は“他者”に囲まれている。それら“他者”の存在があるからこそ我々の“じぶん”が成立しているのだから、まずはそう急がなくてもいい」といったようなことが含まれていると僕は解釈している。
この「待つ」は誰もが逃れようのない「待つ」であり、待つという主体的な表現だからややこしくなってしまうのだが、かといって「ある」といった一般的表現だけでもニュアンスは伝わらない。私は誰かを待つ、誰かは私を待つ、このような私と誰かが交錯するような場所に我々は常にさらされていて、そうした「前提としてのコミュニケーション」があって初めて、我々は我々として各々の主体性が浮かび上がる。

ああ、書いていてあまりの説明のヘタさに自分でもイライラしてきたが、まあコミュニケーションの根源には、互いが互いを「待つ」ということが前提としてあるということだ。

ひきこもり支援での「待つ」という議論とは、このような大前提としての「待つ」を認めた上で(それを認めないと我々人類は全員が孤立してしまう)、「社会という門の前で若者たちを放置させずに、若者たちが各々自分にできるかたちで社会という門をくぐってもらいましょう」という「技術論」を指す。『待つをやめるとき』という本も、そうした技術論について書かれた本だ。
鷲田先生の「待つ」は技術論ではなく、基礎講座のようなもの。鷲田「待つ」とひきこもり支援「待つ」は対立するものではなく、土台(鷲田)と建物(ひきこもり支援)のようなものだろう。★