動的ニートと静的ニート〜きっと予想は外れるだろうけど

前回、「動的ひきこもり」という概念を提案したが、あれから「動的ニート」のほうがいいのでは、と思い始めた。
要は、「点」で社会参加の実態を調査するのではなく、「線」でその実態を調査したい。その目的は、年金を若者自身が支払っているかどうかを知るという点につきる。今のところは親御さんが立て替えて国民年金を支払っているパターンが多いだろうが、10〜30年後に親御さんが亡くなっていくと、あとには40〜50代の「これまで年金を親に建て替えてもらっていた人たち」が残る。
この人たちはいきなり独力で国民年金を支払うことは困難だろうから、いっせいに生活保護申請へと走る。そのことは誰にも責められないし、僕が70才になっても支援者をしていればその申請を応援するだろう(75才には僕は死ぬだろうが)。
だから誰も責められないのだけれども、そのようにして40才後半から50才後半になるであろう人たちはいまいったい何人くらいいるのか。いや、今の生活をしているとそのような状態になるであろう若者が現在何人くらいいるのか。

それを知るためには、まずは「動的」という考え方が必要だ。これは「動く」という意味ではなく、「静的」と比較する意味で使っている。要は、ある時間の地点で調査してひきこもりとかニートとかにするのではなく、たとえば10年といった長い時間の間で3分の2はニートかひきこもり、3分の1は非正規雇用、たが社会保険はすべて親が負担、という層を捉えるためにつくった概念だ。
単にその時点でひきこもりやニートだけでは、その人達はやがて働くであろうし、その働いた先にはやがてまた少しニートになるだろうし、でもそのまたもうちょっと先には半年だけ働くだろうし、少し青年支援をしたことがある人ならピンとくるだろうが、現代の青年の自立とはこのような過程を通ることが本当に普通だからだ。淡路プラッツが「スモールステップ」支援という言葉をおすすめしているのは、このような青年の自立実態からきている。
動的とはつまり、長期間にわたって動く青年を捉える、といった意味になる。そのことで、真に社会から阻害されている(制度的には年金の本人未払いの)数を把握する。
把握することで、親御さんが亡くなったあとにどれだけの数が年金独自支払に困窮するのか、そしてどれだけの数が生活保護申請に向かうのか、その結果、国家財政的にどの程度危機に陥るのかを予想する。

動的ひきこもりではなく「動的ニート」に変えてみたのは、単純だ。ひきこもりでは「個人支援」の色が強すぎるからだ。
現在の若者支援には、①個人支援と②制度改革の2レベルがあり、ひきこもりを使ってしまうとこれまでのイメージからどうしても①の色がついてしまう。ニートには「就労」や「社会」という色が強く、まだ「非支援者」という意味合いはひきこもりよりは弱いことから、②を考えていく上では都合がよい。その程度の理由で、「動的ひきこもり」ではなく「動的ニート」にした。
要は、10年単位で動く若者の実態を把握したいわけだ。10年単位で、3分の2の期間がニート、3分の1が非正規雇用、そして年金支払いは全額親、という層がいったい何人いるのか。

僕は軽く500万人はいると思っているのだが、予想が外れることを祈る。500万人だと、現在の全労働者は6,000万人だから、その12分の1は「基本ニートで時々バイト、そして年金は親」ということになるのだが、まさかそんなに多くはないだろうとは思いたい。
繰り返すが、若者支援には①個人支援と②制度改革の2つのレベルがある。僕個人(あるいは淡路プラッツという一NPO)は、500万人「動的ニート」がいようが、目の前の若者と保護者を支援していくのみだ。だが、もしも500万人いれば(あるいはそのうち500万人になれば)日本の制度的危機は明らかだ。

そして我が国はシステムを独自改革できない国でもある。厚労省の役人という「現場力」レベルでは、高齢者年金の漸進的変革を通して目先の社会破綻は避けられるだろう。どんな事象に対しても、我が国は「現場」は強く、システム変革には弱い。これはとても不思議な現象だけれども、諸外国が我が国をそう見ているのは事実のようだ。
だから、厚労省の現場力によってしばらくは何とか持ちこたえてはいくだろう。だが、一気に500万人が生活保護の申請に向かったら。僕自身はそんな老後もアリだとは思うが(自由でいいと思う)、500万人は素人が考えてもヤバい。生活保護だけではなく、それらは年金も支払えないわけだから、超少子高齢化社会は簡単に破綻する。
きっと予想は外れるだろうけど、少なくとも実態把握は必要だと思う。500万人ではなく、100万人程度であることを(これでも十分多いか)。今の「静的ニート」だけでは、事の深刻さを発見できないのは明らかだ。そのための、「動的ニート」だ。★