2011年11月14日月曜日

「希望」から「幸福」へ〜キーワード①「幸福」

僕のブログ研究によると、無名の筆者によるブログの閲覧率を高める唯一無二の方法は、「タイトルを工夫すること」に尽きるようだ。つまりは、タイトルに有名人や現在世間が気にしているらしいことを毎回持ってくる。
確かに、僕自身がブログを読むときにも、ブログ筆者名で読むケースはほとんどなく、だいたいが何かの検索の流れでそのブログに辿り着き、そのブログがおもしろかったとしてもブックマークする前に次のページへとサーフィンしてしまう。
余程のことがないと、ブックマークしたとしてもブログそのものを定期的には僕は読まない。僕であれば、池田信夫さんとかさいろ社松本君とか、定期的に読むブログは数本だ。おそらくみなさんもそうでしょう。

そんなわけで、ブログ閲覧のポイントは旬なタイトルということになり、有名人やその時の話題を強引でもタイトルに入れることがコツ、とマニュアル本には書いている。だから当ブログも、先週までは苦労してタイトルにそれらを入れ込んでいた。
だが、前回のブログを書いたことで何となく「スモールステップブログ第1章」が終わった気がしたので(僕はわりと「ああこれで◯章が終わったのかなあ」と考えるタイプ)、今回からタイトルも好き勝手につけることにした。
今回のような「希望」や「幸福」では誰も読まないのは(というかこのページに立どまりにくいのは)わかっているのだけど、やはり、ささやかでもいいから何かを提言していくのが僕の仕事だと思っているから。

東大経済学者の玄田有史さんが「希望学」を提唱されてからもう何年たつのだろうか。経済学の中に「希望」という抽象概念を持ち込むことは非常に抵抗を受けたんだろうなあと想像するのだが、あの当時、希望学は相当重要な意味があったと思う。
それは、超少子高齢化社会に入り込む寸前にいた我々に、ある種の覚悟を迫った。これから我々は未だ体験したことのない世界に突入しますよ、だから凛とした希望をもって、その社会に臨みましょう、といった覚悟だ。
玄田さんが希望といってくれたおかげで、何人もの当事者やその家族が前を向くことができたと思うし、何よりも重要だったのは、それは、青少年支援者に対してある種の「働く意味」を与えてくれた。

我々支援者が毎日地道に仕事/支援しているのは、単に一人の若者を社会に送り出すことにとどまらず、彼ら彼女らやその家族に「希望」を持ってもらうことなんだ、ということを教えてくれたのであった。
そして、その希望は彼ら彼女らに連鎖していき、また、次の世代の彼ら彼女らに伝わっていく。非常に抽象的ではあるが、非常に重い問題(超少子高齢化)に社会全体が直面しようとするとき、「希望」は我々に何かを注入してくれる。

だが、政府の統計的発表はさておき、実感としてその超少子高齢化社会に突入したと僕は思っている。10年前と比べても、確実に社会の中での高齢者率は高まっていると日々実感する。テレビは高齢者向け健康番組と健康食品・グッズのCMであふれ、音楽番組が70〜80年代のヒット曲を繰り返し流す。
僕の仕事においても、ひきこもりの中心年齢は30代(団塊ジュニア)に移行し、親御さんが70才でもそれほど驚かなくなった。
非正規雇用は3割を越え、独身者数も男性で3割を越えている。あの、「いつか近いうちに少子高齢化社会になりますよ」と20年も前から警鐘され続けていた社会に、おそらくすでになっている。

おもしろいことに、最近になればなるほど(超少子高齢化社会に突入して以降)、メディアは超少子高齢化社会の問題をヒステリックにとりあげなくなった。高齢者介護や年金問題など、あれほど毎日騒がれていた問題が、たくさんある問題の一つでしかないというような感じで、あっさりさらりと流されていく。
まるで以前から、「超少子高齢化社会に突入したらこの問題を告発するのはやめましょうね」と示し合わされていたかのごとく、うす〜い問題として、メディアは日々スルーする。

これがつまりは、「人々が恐れていた社会」に突入してしまったときに人々が見せる態度なんだろうなあと思う。僕は社会学者ではないからそれを分析する言葉を持たないし、持っていても今はあまり意味がない。
学者は予想する言葉は持つが解決する力は持たない。今ほど、学者が力を持たない時代はない。

希望とは絶望が前提になった言葉なので、その言葉の明るさに反して実は相当ネガティブな言葉だ。絶望を共有しているからこそ希望という言葉に説得力が溢れる。“死”が前提にあるからこそ「今ここ」の“生”を充実させようという論法と同じだ。
その絶望とは、このまま我々は超少子高齢化へ突入してしまうという、諦めのようなものであった。

だが、その超少子高齢化になった今、希望よりも大事なものがある。それは、その超少子高齢化社会の中で、その社会にいる人なりの「幸福」を見つけ、創出し、そこに身を委ねていくということだ。
その幸福は、抽象的なものではない。
それはたとえば、手取り15万円の給料で30代独身生活をいかに幸福に過ごすかとか、手取り15万円の正規雇用者と手取り12万円の非正規雇用カップルが結婚し何人子どもをつくりどのような幸福な家庭を築くかとか、40代独身サラリーマン生活をしながら70代の親といかに幸福にかかわっていくかとか、30代ニート青年が有料福祉ボランティアをしながら恋人や友人とそれなりに出会い時々アルバイトもしながらいかに幸福な実感を獲得するかとか、挙げだしたらきりがないほど、具体的な幸福像が求められている。

そうした具体的幸福像を描くことをプラッツはお手伝いしていこうと思う。希望を抱きながら、具体的幸福像を築く時代に、この日本はなった。★