NPOと「戦争機械」

この前本屋で、檜垣立哉さんの新刊『ヴィータ・テクニカ』という本が売ってたのでさっそく購入しようと思ったが、3800円もしたからつい躊躇ってしまった。
哲学本としては普通の値段なのだが、どうもこの頃僕は再び貧乏気味なので、ここ10年普通だった「買いたい本はその場で買う」というのができなくなっている。
まあそれはそれでプレイ感覚で楽しいものの、立ち読みだけではフォローしきれないほど同書には魅力たっぷりの議論が詰まっているみたいだ。

同書で、檜垣ファンにとってはおなじみ、ドゥルーズとガタリの『千のプラトー』がとりあげられている。氏は、同書の12章で出てくる「戦争機械」という有名な概念をとりあげつつ、どうやらNPOを戦争機械のひとつの現実的かたちとして位置づけているようだ。

そのあたり、悲しいかな立ち読みだったので、正確ではない。やっぱり今度の給料日に買おうかな〜……、と書くとより悲しいので、ここではとりあえず、桧垣さんが戦争機械の具体的かたちとしてNPOをとりあげているという前提にたって、軽く書いてみたい。
まあこのへんのいい加減さも、ブログならではということでご勘弁を。

ドゥルーズといえば、この人が一番!!



戦争機械とは、国家装置のような社会的制度的に固定化されたものではなく、制度からその都度はみ出ながらアドリブ的に近代的組織化からすり抜ける「潜在的な」人々のつながりのことを指す。めんどくさいので、ヤフー百科事典からコピーするとこうなる。



戦争を目的とする機械のことではなく、むしろ国家の形成や中心化を妨げるような、非中心化的で集団的なメカニズムや横断的なネットワークのこと。この場合「機械」とは、生物に対立する人工物ではなく、むしろ構造主義の「構造」に対立し、いかなる超越的な原理や否定的なものの支配をも受けることなく、相互に中継と分岐を生産していくような潜在性のシステムのことである。




全文はこちらにあるので参照されたい。決して「実際に戦争する社会装置」のことではないのでご注意を。
流行りの言葉で言い換えれば、「ノマド」的組織といってもいいだろうか。たぶんダメな気もするが、まあつまりは、好き勝手やっている人々のつながりであり、既存の組織形態を「動物的に」はみ出しているため非常におもしろい動きをする集団、みたいなものです。

このような概念を用いて、新しい組織形態の代表であるNPOという形態と比較するというのは、安易だがその気持はよくわかる。
たしかに、NPOは既存の株式会社とも違うし、行政組織とも違うように見える。
だが同時に、実は今のNPOは、既存の株式会社に似ている部分もあるし、まるで行政組織のような部分もあったりするのだ。

特に、ボランティア型ではなく事業型と位置づけられる、ある程度経営基盤のしっかりしたNPO(全体の二割にも満たないそうだ)は、既存の社会装置として拡大していく道と、戦争機械のテーストを残したままなんとか経営していく道の、二つの道をどこかで選ばざるをえない。
前者を選ぶと、たとえば経営学のような「近代」の枠組みにはめ込められていき、短・中・長期の経営目標や経営戦略など、近代組織としては当然の行ないをする必要がある。

後者の例を僕は残念ながら知らないのだが、どこかに戦争機械のテーストを持つ事業型のNPOはあるはずと信じて、僕はふだんの仕事をしている。

つまりは今、淡路プラッツはふたつの道の分かれ道にいるというわけです。ここからプラッツはどちらの道に行くのだろうか。
まあ、元のボランティア型へと逆戻りして、ボランティア型戦争機械NPOという道もあるんですが。★