the time is out of jointの、イバショ〜変な大人/イバショ論⑤


■イバショ(居場所)=生活支援

僕はもうこの頃はすっかり経営の人になってしまって、淡路プラッツの1階の代表席に偉そうに座り、時々3階の応接室みたいなところでスタッフやお客様と話し合うことだけで1日が過ぎ、あっという間に1週間が過ぎている。

2階にはいわゆる「居場所」があり、そこで青年たちがいわゆる「生活(体験)支援」を受けている。
詳しくはこのひきこもり/ニート・スモールステップ支援スケールver.1を参照していただきたいが、スケール中「ステップ④心理面談型ニート」が受ける支援が、生活支援であり、ひきこもり青年が社会参加していく際には欠かせないステップだ。

スケール欄外にある通り(パッとわかりにくいので、そろそろver.2をつくらないと)、生活支援はさらに、a.コミュニケーション(会話)、b.生活訓練(清掃・調理等)、c.レクリェーション(買物・カラオケ・旅行等)の三段階に分かれる。
「会話して料理してカラオケしてなんて、それって支援?」と言うなかれ。フツーの方々からは若者として当たり前と捉えられるこのような諸行為群こそ、長らくひきこもっている青少年にとって未体験であり、かつ同世代への最大のコンプレックス要因なのだ。


またこれら「当たり前の」生活体験は、それらが世間一般には当たり前すぎて、わざわざ他人に聞いて回ることも恥ずかしくてできない。
親に聞いても、親の価値観からすると「そんなの若者だったら誰でもやってること」の一言で片付けることができるため、そうした親の醸し出す空気が苦痛で若者は頼ることができない。


結果、人によっては5〜10年、そうした体験を積めないまま時間が過ぎていく。
このような空白期間が長くなればなるほど、スケール⑤以降の「就労(体験)支援/⑤就労面談」へと進むことができない。
正確には、⑤に進むことができてもそこで簡単に挫折し、再び②(外出不可型ひきこもり)あたりに戻ることになる。

③から⑤へのステップ飛ばしは最も危険で、就労体験を地道に積み重ねるためにも、④段階を半年から2年程度積むのが結果的に着実な社会参加ができることになる。

■イバショと変な大人

で、そうした生活体験が2階の居場所では展開されているのだが、そこは、僕が居場所のスタッフとして働いていた10年前からあまり変わることのない雰囲気をもつ。
そこは、居場所という漢字で書くよりはむしろ、イバショというカタカナ的な表記で示したほうが意味を伝えやすい空間なのだ。

イバショには会話がある(コミュニケーション)。が、その会話は、たとえばアニメ「エヴァンゲリオン」の話題のみで充満している。そこで語られるエヴァは、第5話ラストシーンのシンジのモノマネだったり、21話「ネルフ誕生」のマニアックなエピソードだったりする。
また、そのような趣味の話題だけではなく、たとえば「価値」をテーマにした話題もある。僕などはよく自分の「変な」価値をテーマにしていた。そこには当然「家族」や「仕事」に関する、若者たちにとってはかなり触れてほしくない話題もある。

だが僕は、これら価値の話題をあくまでも自分の話題として提供する。
そうすると、同じ「家族」の話題でも「家族とは近代社会の一装置」だとか、同じ「仕事」でも「仕事と労働は違い、労働はクソで、仕事は瞬間ごとの完全燃焼」みたいな、世間的には「超変な」価値観として若者には提示される。

また、イバショには調理もある(生活訓練)。ここでは僕は、自分の開発したオリジナルイタリアンと、それに合う絶妙なワイン(安物)を紹介する(現場スタッフだった頃の話)。
イバショにはカラオケもある(レクリェーション)。ここでは僕は、当然「エヴァ(主題歌)」→「化物語」→「エヴァ(タナトス」)」→「少女革命ウテナ」→「エヴァ(魂のルフラン)」というふうに、アニメの連発を披露する。若者たちが歌っている間も拍手などはせず、ひたすら自分が歌う次のアニソンを探している。

イバショには旅行もあった。僕は遠いところでは、メキシコやソウルに若者たちといっしょに行った。海外では僕の「変な大人」ぶりは思わず倍増されてしまう。

■イバショはout of jointな時空間

スタッフがこんな調子だから、若者たちもゆっくりとではあるが、彼ら彼女らが持つ「時間の蝶番(ちょうつがい=joint)」が外れていく。
時間の蝶番が外れてしまった、とは、シェイクスピア『ハムレット』のセリフであり、哲学者ドゥルーズが『差異と反復』第2章で引用している言葉だが、ドゥルーズが提示する正式な意味とは若干アバウトものの、現在と過去に縛られ続けるフツーの我々の暮らしから一時的にはみ出る表現としては意味をつかみやすい。

イバショとは、変な大人と若者たち自身で形成していくthe time is out of jointな空間なのだ。

ただしその蝶番の外れた時空間は永遠のものではなく、いつかは終わるし、正確に言うと、out of jointの間も通常の時間は流れている。
ひとつは、若者たち自身がフツーの規範に縛られどこかで元の社会に戻りたいと思っていること、もうひとつは、イバショのスタッフ自身も、徹底的に変な大人でい続けることはありえず、何らかの支援論・技法・情報に捕らわれていること、がその理由だ。

out of jointはあくまで一時的な状態にすぎない。それはこれまでの「変な大人」論1〜3でも述べてきたとおりだ。

だが、時間は奇妙なかたちで一時的に変更することはできる。その間、子ども・若者たちは癒され、そして体験したかったがそのチャンスに恵まれなかった生活のさまざまな事柄を体験し、やがては元の世界に戻っていく。
青少年支援を哲学的に見ると、以上のような捉え方になる。

通常の世界に戻っても時々out of jointするかどうかは、それは青少年次第。個人的には僕のサイドにも時々来てほしいが、支援者的には僕のサイドには寄り付かないほうがいい。out of jointを人為的に出現させるにははわりと修行も必要だから。★

★お知らせ……プラッツ20周年記念として、この秋3連発シンポジウムを予定しています。1回目は、10/6(土)で、テーマは「イバショ〜なぜ子ども・若者に必要なのか」です。詳しくは追々お知らせします〜