「アドボカシー」は哲学りたくなる


■アドボカシーと臨床心理学

この頃、NPO経営や社会貢献議論の流れのなかで「アドボカシー」という言葉をよく聞くようになった。そうした一連の言葉ではほかに、ソーシャル・アントレプレナー(社会起業家)やスケールアウト/スケールアップ(水平/垂直展開)等をよく聞く。

僕は、2年前の脳出血発病までは、主として支援の仕事の傍らに経営っぽいことをしてきた。
中心はあくまでも現場/支援であり、その支援の仕事をもとに「哲学」もしてきた。僕の考えることのほとんどは、青少年支援について、心理学等では物足りない言葉を創出し、概念を創造し、支援システムを提案するということだった(そのひとつの結実がスモールステップスケールver.2.0)。

だから、アドボカシーやソーシャル・アントレプレナーやスケールアウト/アップ等の社会貢献系最新ワードにはかなり疎い。それでも、それら最新ワードを聞いたり読むにつけ、ものすごく共感を覚えるとともに、何か微妙な違和感も抱く。

その違和感は、昔、臨床心理学に対して抱いた違和感に若干似ている。「共感」や「受容」等、臨床心理学が自明のものとしている言語群に僕は強烈な違和感を抱いた。
共感や受容のより深い仕組みを僕は知りたかったが、残念ながら心理学にはそれは存在しなかった。
唯一、哲学にそれはあったのだった。

最近僕は、アドボカシー等のNPO関係の言葉群に、以前臨床心理学の諸概念に抱いたのと同じものを感じている。足りているようで足りない、届きそうで届かない、あの感じだ。

■「当事者」と「経験者」

アドボカシーをWikipediaで引くと(今帰省中なので本屋がまわりにないんです〜)、①権利擁護、②政策提言のふたつが主たる意味として書かれている。
①は、自己意思を明確に表明できない当事者(終末期患者・アルツハイマー患者・重度の障害者等)を「代弁」することを指し、②は①をもとにした(広義の)政治活動を指すようだ。

今回は①をみてみよう。
当事者の代弁(ルプレザンタシオン)については、僕の10年以上のテーマでもある。それは、「ひきこもり当事者は語ることができるか」という問いかけで始まった。
当時は、「語ることのできる」ひきこもり青年が現れた頃だった。彼らは、自分の経験や苦しみを自分の言葉で必死に絞り出していた。

彼らに対して僕は、語れる存在となった者は「ひきこもり経験者」として区別し、いまだ語ることのできない者のみが「ひきこもり当事者」であるとした。
これに対し、「経験者」の方々をひどく怒らせ傷つけてしまった。「では、自分たち『経験者』はひきこもりではなく、語ってはいけないのか」と。

いや、語ることは自由なのだが、あなたたちは決して「当事者」ではない、と僕は頑として主張した。あなたたちはあくまでも「語ることができるようになった『経験者』」であって、真の当事者は自分を「ひきこもり」であると認識すらしていない(生活状態はまぎれもなくひきこもりなのだが)、と僕は主張した。
当時はそこで議論が止まり、いまも止まったままだ。

ここ5年ばかりはプラッツ仕事にかかりっきりで哲学的余裕はなかったから、今も当時の主張とは変わっていない。当事者は経験者に含まれる真部分集合ではあるが、経験者は当事者に戻ることはできない。

と同時に、当事者は決して「語ることができない」。最近は自分のことを「ひきこもりだ」と表明できる若者が増えたが(この時点で僕の定義では「経験者」になっているが)、10年前はそれほど多くはなかった。

僕がスモールステップスケールのなかでひきこもりとニートを区別しているのは、実はこうした点からもきている。
現在はだいぶ曖昧になっているものの、元々は、「語れない当事者=ひきこもり=支援施設につながっていない(アウトリーチできていない)者」、「語れる経験者=ニート=支援施設につながった(アウトリーチに成功した)者」という区別から出発した。

■支援者の「欲望」

さらにここに、僕のような「外部にいる存在者」もかかわってくる。
僕のような外部にいる支援者/NPO運営者/研究者は、いつのまにか自分の存在を隠して、ひきこもりやニートの議論をする。
誰が経験者で誰が当事者かなどと、自分の立ち位置を明確にしないまま、自分を空気のような存在として、現在の若者の問題を議論(代弁・代表の意とは別の、もうひとつのルプレザンタシオン/表象)している。

その議論の中には、実は自分(田中的ポジションにいる人)の利害が含まれている。僕であれば、「淡路プラッツのミッションを現実化させたい」「淡路プラッツを経営的に安定化させたい」等の隠れた欲望が存在する。
当然、「ひきこもり当事者と経験者、その家族がいまよりも楽になってもらいたい」という欲望も僕の中にはある(この欲望はNPOのミッションと直結する)。

こうした諸欲望を現実化させる時の対象が、ひきこもり「当事者」と「経験者」、そしてその家族だ。
このような僕自身の欲望を明らかにしないまま、僕は「支援」という衣をはおり、経験者や当事者の家族(厳密な定義では支援者は当事者の家族にしか出会えない)に向かう。

これは、僕のような代表職ではなく一支援者であっても同じ。そこには、一支援者としてのそれなりの欲望が潜んでいる(カウンセラーとして若者を元気にしたい)。

久しぶりに「当事者/経験者/支援者」の議論を振り返ったので、ものすごく中途半端な感じだが、「アドボカシー」というとき、実はこうした問題系が次から次へと現れる。
それを、現代のアドボカシー議論はどこまでフォローしているのだろうか。

明日大阪に帰るので、本屋で調べてみようっと。★