「エヴァQ」は駄作だろう〜「エヴァ」と「千と千尋」の2つの死


■僕にとっての『エヴァ』が終わった、『破』

昨日プラッツで保護者対象のいつものセミナーが開かれていて、その参加者の親御さんと僕は少し立ち話した。
この頃僕はほとんど支援の仕事をせず、このブログにあるようなアドボカシーとかシェアNPOとか行政連携とか、そんな経営っぽいことばかり書いたり行なったりしているので少し懐かしかった。

で、そこで出たのが、11月に公開される『エヴァンゲリヲンQ』の話だった。病気以前の僕は、ひきこもりやニートの当事者はもちろん、親御さんとも普通にアニメの話をすることが多かったから、これもまた懐かしかった。
そんなこともあって、NPO経営もいいけれども、たまにはアニメの話でも書こうかなと思ったのであった。

宮崎作品の中ではエンタメ性が薄い

『エヴァンゲリヲンQ』とは、アニメ『エヴァンゲリオン』(新作は「オ」が「ヲ」になっている)のリメークっぽい完全新作で、『Q』で3作目となる。『エヴァヲ(旧作と区別するためこう省略しよう)』1作目は碓か2007年の公開だったから、もう5年も前になる。
2作目の『破』は半分くらい新しい物語になっていて、2009年の公開。これまた3年も前なのだ。

1作目は旧作の完全リメークに近かったから置いといて、半分くらい新作となった2作目を見た時僕は、「ああ庵野も大人になったなあ」とつくづく安心するとともに、「僕にとっての『エヴァ』も終わったな」と思ったのであった。

庵野とは、庵野秀明監督のことで、一時までは宮崎駿の次の世代の代表選手と思われるほどの(事実、20代前半にして、あの「ナウシカ」巨神兵をデザインしている)才能の持ち主で、アニメ制作会社ガイナックスは完全オタク会社でありながら庵野の才能のみで潤っていた、ミョーな会社なのであった。

■他者は自己より「先」にある

エヴァ旧作は、まさに異常な作品だった。当ブログでも「すべての映画はエヴァンゲリオンで終わったかもしれない」として、去年の年末にしみじみ振り返っている。
その異常さを一言でいうと、「『他者』との交わりを通した『新しい自己』の確立」ということになるだろうか。

自己は、他者との壮絶なコミュニケーションを通して初めてそれまでの自己の狭さを知る。
そして、新しい自己が確立されていき、同時にそれまで「敵」であった他者が、実は自分=自己より「先にあった」存在であることも知る。

実は、他者は自己より先にある。今悩む自己も、他者を憎む自己も、そもそも先にある他者を通して生まれ、存在している。
つまりは、他者あって初めて自己は他者を憎むことができる。

そのことを肥大化した自己は極端な状態になって初めて知る。極端な状態とはつまり、「死」の手前ということだ。
『エヴァ』の主人公シンジは、旧作映画版ラストで死の直前まで行くが、同時にそこは「他者と自己」の境界のない世界でもあった。

そうした極端な状況設定のなかで、主人公は最後に、他者と自己がバラバラだった元の世界を選ぶ。あれほど憎しみの対象だった他者がゴロゴロいる世界に、主人公は再び帰ることを決定する。
その瞬間、シンジは別のシンジになっている。これからも他者に押しつぶされ続けるシンジではあるだろうが、そうした押しつぶす他者があって初めて自分がいることをシンジは知ってしまった。

だから、ラストのラストで、同じく復活して隣にいる同僚から罵倒の言葉を浴びせられたとしても、それは以前のようにひきこもるきっかけをつくる言葉にはならないだろう。
世界は相変わらず厳しいが、そうした厳しさそのものから自分は生まれてきたわけだから、その事実を受け入れるしかないのだ。

■思春期の「死」

そんな旧作を作って庵野は大人になった。と同時に、旧作のような緊張感をもった作品をまったく作れなくなってしまった。
たとえは悪いが、『暗夜行路』を書いたあとの志賀直哉のように、『ハプワース16,1924』を書いたあとのサリンジャーのように。作家の中には、自己を確立するために作品を生み出す人々が存在し、庵野もその系列の作家だった。

が、何の因果か(僕は、庵野の作家性2割、「資本主義的事情」8割だと思っている)リメーク版をつくることになってしまった。
そして予想通りそれは、旧作が持っていたテンションの異常さはなく、単に完成度の高いエンタメ作品になっている。

3作目の『Q』は物語をより推し進める必要があるため、さらに「おもしろく」なっているだろう。しかし旧作が持っていた異常な緊張感は皆無だろう。おもしろいけれどもヒリヒリしない、これは僕にとっては駄作だ。

庵野は一度目の「死」を通り抜けてしまった。それは思春期の死であり、古い自己の死であり、同時に新たな人間の誕生と大人の始まりのきっかけとなった「死」だった。

おそらく次の傑作は、思春期の死ではない、本当の「死」を現実感を持ってイメージできるようになる時期に現れるだろう。

■『千と千尋』の「死」

庵野の師匠である宮崎駿は、『千と千尋の神隠し』という作品で、その第二の死を彼なりに表現したと僕は思っている。

主人公がラスト近くで背景のない世界を汽車に乗って移動するシーンは、音も少なく、色もあまりない世界だ。
それはまるでマンガ家いがらしみきおが『I(アイ)』1巻で、「真っ黒な青空」と評した世界(当ブログ「その『真っ黒な青空』は僕も知っている」参照)、また個人的な記憶で申し訳ないが、僕が脳出血で意識を長い間失っていた抱いていた感覚に近い。

宮崎駿は、『千と千尋』の中で、思春期の「死」ではない、本当の「死」を描いてしまった。確か、宮崎自身も、そこで一度引退したはずだ。

そこで彼の作家生活は重大な節目を迎え、次の作品(キムタクが声優していた)は珍しく駄作であり、次の作品(『ポニョ』)は僕は見ていない(宮崎作品では唯一見ていない作品。TV「赤毛のアン」や「ホームズ」や「赤ジャケ・ルパン」の2作品等、マニアックなものさえ全部見てきたというのに)。

だが、『ポニョ』は対象が「子ども」に戻ったということで僕は納得している。
本当の「死」を通り抜けたあと、人は「子ども」になる(認知症という意味ではなく)ということを、宮崎は実証してくれたようで嬉しかったから。
思春期→大人→子ども、というのが人間の流れだと僕は思う(だからニーチェはすごい)。

庵野も今の『エヴァヲ』シリーズを早く終わらせて、60才頃(今から10年後)に庵野なりの『千と千尋』を作ることを期待している。それを楽しみにして、僕もあと10年は健康でいようっと。★