「居場所のイマージュ」が居場所を出たあとも人を支える 

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■支援者と権力

8/2、NPOユースカフェ2「支援者と権力」がマニアックな内容にもかかわらず15名ほどの人が参加してとりおこなわれた。
内容はFacebookでも報告したとおり、以下のようなものだった。
京都精華大学で非常勤講師をしたとはいえ、基本、教師稼業は素人だから必死だ。
★8/2 NPOユースカフェ「支援者と権力」

1.権力が嫌い

2.権力とは?〜フーコーの権力論
①告白
②ディシプリン権力〜ルールとパノプティコン
③監視権力(生権力)〜カメラとマクドナルド、統計・テータ

3.不可避の権力とどう共存するか
①居場所〜変な大人
②パレーシアを越えたところで
③鷲田先生の「軽さ」


4.なぜ権力がいやなのか〜対話〜

2は僕なりにフーコーを解釈したもの、3は当ブログでも言及してきた「変な大人」を中心に(これ等参照http://toroo4ever.blogspot.jp/2013/06/blog-post_27.html)、最近テーマになっている「パレーシア」(フーコー最晩年の重要概念)や鷲田清一先生の臨床哲学論に含まれる独自の「軽さ」「ユーモア」などを僕なりに紹介した。

そのあと4に移って参加者と簡単な対話を行なったのだが、その流れの中で重用な発見をしたのでここで簡単に紹介しておこう。

■乳房というイマージュ


参加者から「居場所を出たあと、子どもや若者たちはどのように過ごすのか」といったような(正確には忘れた)質問が出たときだと思う。
僕は少し黙っていたが、なぜだか10年前に大阪大学の臨床哲学で学んだフロイトのイマージュ論を思い出した。

フロイトは確か『性理論3編』のなかで、「乳房とおしゃぶり」について書いている。
乳房と乳の「快」を知った乳児は、そのイマージュを自分の親指のなかにつくり上げる。その「おしゃぶり」行為をすることで乳児は、本物の乳房が眼前になくともある意味「快」を得る。

その、「本物の乳房がなくともおしゃぶりという行為を通した連想」によって乳児は快のようなものを得る、この「連想」のことをフロイトあるいはフロイトを解説するドゥルーズは、「イマージュ」と呼ぶ。

そして乳児は、イマージュをもとに快のようなものを得る、これら一連の動作をフロイトは「欲望」と呼ぶ。
ちなみに、欲求(だったかな、正確な言葉を忘れましたが)は目の前にあるものに飛びつくことだ(たとえば目の前の乳を吸う)。
これに対して欲望は、「イマージュ」を元に快を得ることだ(もうひとつフロイト用語に「欲動」があるが今回は割愛)。

■「自由」という快・欲望

これを応用して、僕は、「居場所」に関しても、居場所が目の前になくともその代わりにイマージュが形成され、そのイマージュを元に「快」を得ることができるのでは、とNPOユースカフェ2の最後に語った。

つまり、居場所を子どもや若者が「卒業」したあとも、居場所で体験したある種の「快」がイマージュとして残り、目の前に実際の居場所がなくともその快のイマージュによって子どもや若者は支えられるのでは、ということだ。

居場所を出たあと、子どもや若者は「権力」にまみれた窮屈な社会に戻っていく。
その「権力」とは、①学校のような「ディシプリン(規律)権力」であったり、②街並みやテクノロジー(監視カメラやSNSやファーストフードの狭いテーブル)・現代の統計文化(ニートや非正規雇用の数を元に当事者の動きが決められていく)等の「監視=生権力」であったりする。

居場所でいかに癒されても、諸権力にまみれた現代社会の中では、子どもや若者はすぐに疲れ果ててしまうだろう。

そのとき、子どもや若者が体験した「居場所」のイマージュが彼ら彼女らを癒すのでは、と僕は語った。
もっと言うと、居場所で体験した「自由」の体験がイマージュとして彼ら彼女らの中に残り、そこでの「快」が盾となって、現代の権力社会の窮屈さを何とかしのいでいくのでは、ということだ。

その「自由の盾」というイマージュこそ、自由への欲望といってもいいだろう。

以上、単純な話ではあるが、僕が20年くらいふらふらとあちこちで(臨床哲学や出版社やNPOで)模索してきた事柄が、一点に収束してまとまった、記念碑的かつ不思議なセミナーだった。★