50才という節目

このシークレットブログ(アクセス200ほど)をチェックする人のほとんどは僕より年下だと思う。年下ということは40代以下ということであり、「50才の節目」を実感としてわからないということだ。

上から目線の話でもなく、自分が50〜51才になってみて感じることは、何かの節目が訪れたということだ。

これは、46才で脳出血になり生き残ったとか(僕は実際生き残ったのだが)、その手のサバイバーネタではない。

50才は、たぶん「死」への節目だと思う。50才の人々が犯してしまういろいろな犯罪ニュースを見るたびに、高校生の頃の僕は、「なんで50才にもなってこんな犯罪をやるんだろう」と謎だったのだが、今はわかる。

それは、まずは人生に諦めるということだ。

「それ」というのは、50才ということ。50才は我々にとってある種の諦念だ。それはある種の安定や平和や愛に結びつくこともあるし(家族愛等)、なにがしかの犯罪に向かうこともある。

人生のエネルギー切れ寸前ではあるが、人生すべてを諦めきってもいない、そんな微妙なお年ごろということだ。

ネット発信という文明を人間が手に入れたのは最近のこと。これまでは一部の文学者やエッセイストのみが綴っていた「50才の憂鬱」を、多くの人びとが発信するだろう。
もうそれは始まっていると思う。★