大学で語るということ

今日(6/24)も京都精華大学で「こころと思想」の授業を行なった。

今日は、「他者の声」をみなさんはどう聞くかというお題を学生さんたちに与え(昨年までと違って夕方に変更した今季は学生の数も少なくなりアットホームで楽しい)、マニアックではあるがフロイト『ヒステリー研究』内に掲載されている知覚図というか認識図のようなものを説明しつつ、「こぼれ落ちる他者の声」を解説した。

こう書くと何のことかわけわからないだろうが、僕としては今持っている知識を総動員しながら、どうしても気になる「他者の声」に言及し続けた。

うれしいもので、全部で30人もいないものの、学生さんは熱心に聞いてくれている。
たぶん、不登校や思春期や『ポーの一族』(萩尾望都のマンガ)や、その他若い人たちが食い付くようなタームを散りばめて語っているためだろうが、基本的に「何かを求めている若者」がそこにいると僕は解釈しており、それに向けて応答しているつもりだ。

今年は去年まで用意していた資料も用意せず、ひたすら僕の語りだけで勝負している。たぶん3年目なので今年がラストなのと、3年目で実験したいため等、さまざまな理由はあるが、非常に刺激的な体験だ。

資料なしで80分ほど連続で語ることができること、そして、その80分のマニアックな語りを一生懸命聞いてくれる学生さんが目の前にいること、これらがたいへん幸福だ。

今年でおそらくラストの講義だろうが(非常勤講師は3年が節目)、今年、こういう形式に至ることができてよかった。何かを求める若者の姿は非常に美しく、そこに少しでも関わることができて、支援者ではない楽しみに目覚めてしまった。
いや、教育者になりたいわけではないが。★