支援者って必要か? 〜支援者モードでなくなると感じる不思議①

ここのところ僕の意識は(支援者バーンアウトを受けて)「支援者」ではないが、行動としては従来通り支援者としてふるまっていると(たぶん支援のレベルは落ちていないはずで、支援という行動をさらに敷衍して観察する「メタモード」になっているという意味)、いろいろ不思議なことがある。


それは、「支援者って本当に必要なのか?」あるいは「支援者が必要な人々って実はかなり少ないんじゃないか」という身も蓋もない問いだ。


ここでいう「支援者」は子ども若者支援者のことで、医療支援者(医師や看護師)のことはあまり指していない。
高齢者医療や福祉の分野では、不要な医療・福祉専門家もいるかもしれないが、それは語り始めると長くなる(20代の頃の医療ジャーナリスト時代はそんなことばかり考えていた)。


だから今の自分の専門分野である「子ども若者」分野に絞りたいが、ひきこもりの高齢化や発達障がいの周知化とともに、「当事者」がもつ「ピア(仲間)」の力を僕は注目し始めた。


外から見れば一見喧嘩しているような発達障がい者同士のコミュニケーションや、外から見ればネガティブなトークが静かに積み重ねられる40才ひきこもりの交流会なども、当事者同士からするとその場はいろいろあるかもしれないものの、結果として仲間同士で支えあっている。


その支え合いの力があれば、「コミュニケーション支援」か「就労支援」かは知らないが、変に専門知識はあるものの規範意識が強くマイノリティへのバイアスも実は強くもつ一部の支援者に比べれば、長い目で見るとはるかに意味があるのでは、ということだ。


若者サポートステーションが全国に160ヶ所にまで広がったり、各自治体でそれぞれの「自立支援」を模索したり、妙にキャリアカウンセラーが量産されたり、キャリアとスキルなくプライドの高い臨床心理士が毎年毎年つくられたりするのを見ていると、もう支援者はいらないのでは、と素朴に思うのだ。


それら未熟な支援者を量産する暇があれば、「ピア」をサポートする環境づくりに予算を使うのもありだと思う。メインスタッフへの人件費とか、オフィスの家賃とか。


そんな補助金事業を企画して、「当事者」の人たちに提案しようかな。
そんなことまで考える今日このごろです。★