平和は、国民的「自己治癒」の一技法


■ルサンチマンかトラウマか

このところ日本社会に深く根付く戦争に関する感情を考えていて、それは一種のトラウマではないかと前回書いてみたのだが(戦争は国民的トラウマ)、それから池田信夫氏がブログで「戦争は日本人にとってルサンチマン」と以下のように記述している(必要なのは戦争の「おわび」ではなく再発防止だ)のを読んで、トラウマかルサンチマンか、どちらの要素が強いのか考えている。



しかし敗戦のルサンチマンと戦後教育によって、平和憲法が(戦前の教育勅語と同じように)道徳律として人々に刷り込まれ、戦争を口にすること自体が罪だと思い込む風潮ができた。安保法案を「戦争法案」と名づけて負のイメージを与えようとする野党には、今もこのルサンチマンが残っている。

論旨は理解できる(池田氏は右というよりは欧米的現実主義なジャーナリストだと僕は解釈している)。
70年前の戦争が、それ以降ルサンチマンになったのかトラウマになったのか(ルサンチマンとは、仕方なく現状肯定するために背景の価値を逆転させること。イソップ童話にある、頭上のブドウまでジャンプしても届かない狐が、そのブドウについて「そもそもまずいものだった」と価値転倒させる例がよくあげられる)。

僕は、池田氏的「ルサンチマン→道徳律化」よりは、「トラウマ→セラピーとしての謝罪と永久9条」のほうがより説得力あると思う。

ポイントは、謝罪と永久9条といった理想的平和主義は「若者」が担当し(シールズ)、その具現化/顕在化を担う「大人」層は、戦争防止のスモールステップである個別的自衛権を言語化して明確に位置づけることだ(現実的平和主義)。

そのために、現在の日米安保を個別的自衛権の範囲内で明確に位置付けるという、めんどくさい作業も求められている。

■理想的平和主義は自己治癒の一技法


ところでこのリンク(「権力者と大人は信用しない」、ジャーナリスト田原総一朗の原点は70年前のあの日にある)は田原総一朗氏インタビューだが、「1945年の8月15日に社会の価値観が完全転換したこと」はルサンチマンというよりも、一つの「傷つき体験=トラウマ」だと捉えればとてもわかりやすいと思う。
このトラウマは世代を超えて引き継がれ、今に至る。

トラウマには、
①セラピーを求めるトラウマと、
②心の隅にそっと据え続けておくトラウマ
の2種類があり、日本人にとっての戦争(価値観転換以外に、戦争に付随した多くの悲惨な事実とその伝承)は、後者となった。

昨日出た70年談話は、①というよりはセラピーとは別次元で合理的に問題解決を行なう取り組みのひとつだろうが、それだけではなかなか解決できず、結局②のように、トラウマを抱えながら世代引き継ぎすることが、日本人にとっての国民的トラウマ治療のようだ。

日本では実態としては、(後方支援という玉虫色の解釈可能な米軍連携を基軸とした)個別的自衛権のもと防衛業務が行なわれてきた。
それでも、トラウマ治療としての「理想的平和主義」(デモや声明、あるいは国民一人ひとりが〜僕もそうだ〜胸に秘める「誓い」)は常にパワーアップして現れる。

理想的平和主義とは、我々日本国民にとってのトラウマに対する「自己治癒」の一技法なのだ。★