日本人の仕事は7割カットできるかもしれない

具体的なことは書けないが、「日本人の仕事ぶり」に僕は辟易している。

とにかく、僕からするとどうでもいいことに人々は拘泥する。
その、どうでもいいことを詳述するとなんのことかわかってしまうので書かないが、目先の予定がとにかく無事にすぎることを日本人はまず何よりも願う。

それは、時間を守ること、名前を間違えないこと、ルールを間違えないこと、約束を確認すること等々、その日の仕事において失敗感のないように、段取りどおり完遂することを優先する。

そして、「数字」の細かい合致を優先する。

が、そんなことは僕からすればどうでもいい。
多少遅刻しようが、多少数字がずれようが、多少書類が欠けていようが、どうでもいい。

大切なのは、20年後、その仕事のミッションが完遂されているか、ビジョンに少しでも到達しているか、そこに到達するために策定した3年程度の戦略が戦略通り進んでいるか、なのだ。

その日の会議で、報告数字が10件だろうが3件だろうがどうでもよく、10年後にミッションのイメージが満たされているかが大事だ。

が、ほとんどの日本人は戦略を知らない。またミッションが形骸化している。目の前の出来事に緻密に対応することを優先する。

その結果、それは「現場主義」だったり、「仕事ができる細かさ」などと表現される。

だが、僕からするとそれは、「仕事」の一部でしかない。

だから、日本人が尊重する「現場の精緻さ」を貫徹するあまり、日本人の「仕事」は妙に多い。
ヘタすると、日本人の仕事の7割はカットできるかもしれない。

日本人がイメージする「仕事」の7割は枝葉末節の、あえていうと、どうでもいいことなのだ。
ミッションなき「つぎつぎとなりゆくいきほい」(丸山真男)な日本人は、グローバル化してコモディティ化した世界にとっては、その緻密さがあまり意味を持たなくなってしまった。

それは、有識者のエッセイなどには前提として現れるが、「日本の現場」はその疲労感をまだ意識できていない。
その結果、現場で奮闘する若者たちが鬱に追い込まれる。★