■「日本」らしい
福島県の放射線問題は、原発事故の被害問題を考えるときに非常に「日本らしい」問題を含んでいると、この頃感じ始めた。
それは、「日本」からは誰も逃れられないということであり、放射線の問題にナイーブになればなればなるほど、今現在福島県に住んでいる200万人の人々の生活のあり方はとりあえず置いておかれる問題だ。
具体的には、どれだけ数値的には安全なものだと行政や医療機関が報告しようが、放射線の長期的影響は現時点では厳密には予測できないことから、それら報告の信ぴょう性を疑う人々がいる。
またここに、長年の「反原発主義」と原子力行政への疑いが重なり、すべてのことにおいて慎重になる人々がいる。
その気持ちは僕もわかる。わかるから、そうした潔癖主義には同調していきたいところだ。
が一方で、今日も福島の人々や福島の子どもたちは生活している。
僕は大阪で生きており、福島第一原発からは遠く、原発事故が引き起こした「汚染エリア」からも遠いところで生活している。
そうした立場では何でも好きなことが言えるが、言わないように僕は倫理的に自分を警戒している。
その「警戒」のひとつとして、福島県のすべての状況は「あぶない」などと言うことが含まれる。
■「日本」の倫理
ガンは長期的に発症し、原因が特定しにくいため(甲状腺ガンすら生存可能性が心配されるほど拡大するまでの発症期間がつかめていないという)、福島第一原発の事故が巻き起こした放射線がどれだけ数十年後のガンの原因になるのかは、いまの時点ではわからないようだ。
スクリーニングよる「発見」の多さは原発事故と直接はつながりにくい、原発事故が原因による発症は今のところはつかみにくい等、多くは否定的論証として(〜ではないから危険だとは言えない)言うしかない。
それが、科学というものであり、特に誠実な科学(誠実な医学や誠実な社会学)であろうとすると、そのような「否定神学的」実証しか難しいと思う。
一方で、福島では200万人の人達が生活している。その中には子どもも含まれるし、避難所で今なお生活する人々も含まれる。
当然、そのような方々の生活も射程に入れなければ、「誠実」な福島原発に関する議論とは言えない。
要するに、福島県で生活する人々のガンへの罹患性も視野に入れて、「反原発主義者」は、原発の危険性や子どもたちの健康について議論する必要がある。
この「必要性」こそが、福島第一原発を抱える「日本」の倫理だ。
■「他者」の声
日本は狭く、福島県のすぐ隣に茨城県や宮城県や山形県がある。
この「狭さ」から我々は逃げ切ることはできない。
その狭い領土の上に繁栄は築かれ、その土地の上で高齢化がすすみ、そして原発事故がある。
放射線からは逃れようのない狭い領土に1億2,000万人の人々が今も生息する。その狭さからは誰も逃れることはできない。
誰も、福島県の人々のことはカッコ(「 」)に入れて、放射線の危険性や子どもたちの健康を語ることはできない。
種々の情報においては、現在の福島県は安全だとされている。
この「安全」を疑い始めると上記のようにキリがなくなる。僕は信じている。
どこかでこの「安全」を受け入れる「決定」が必要なのだ。
これはデリダの言うように、「幽霊/ゴースト/他者」の声として我々に響いてくる。
この他者の声を受け止めることが「倫理」だと僕は思う。この狭い領土の中ではどこにも逃げることはできず、他者の声に従い、みながここで生きていくしかない。
反原発という「主義」が背景化し、幽霊の声が我々をつつみ、今ある情報がよほど怪しいものでないかぎり受け入れていくしかない。こんな「日本」からは誰も逃れられない。
そうした「倫理」として、この問題に関わりながらも潜在化する人々の声が、他者の声が、僕に呼びかけるのだ。★