差別してはいけないというポリティカル・コレクトネスが、弱さの実像を覆い隠す


インドの少女の死

もう10年も再読していないので間違っているかもしれないが、スピヴァクは『サバルタンは語ることができるか』の最終部で、ある一人のインドの少女の死についてとりあげている。

その自死の原因は、恋愛のもつれか、あるいは別の原因があったのか。

親族も含めて、死の原因は恋愛の破綻だと証言する。が(このあたりの記憶が曖昧)、生前の少女は、インドの政治体制に憤りなんらかの政治活動をしていた可能性があった。

だからその自死は、恋の終わりがもたらしたものでは実はなく、政治活動への幻滅、あるいは権力との摩擦のようなものがあったのでは、と諧謔なスピヴァクの文章から推察できる。

こうした推察とともに、若い女の死と恋の破綻を紋切り的につなげて語られそれが原因として定着されていることに、スピヴァクは静かに怒っていた。

紋切りが個別の事象のディテールを捨て去る

我々の社会では、すべてがそうである。

ある問題を紋切り的に捉え、その紋切りが個別の事象のディテールを捨て去る。

たとえば、子ども食堂を利用する子はこういう子ども、高校内居場所カフェを利用する生徒はこういう生徒、児童虐待のサバイバーはこういう若者等、自分の生きてきた社会と価値の外にある事象に対して「外部」にある事態には、とりあえずは紋切り的解釈をする。

この文脈での「自分」とは、中流層以上出身の人であり、思春期以降は貧困階層・下流階層と出会ったことがない人々だ。

そうした人々は、これまた紋切り的に「人権」教育を叩き込まれており、「弱い人々を差別してはいけない」という紋切り思想をまずは身につける。

その「弱い人々」は眼の前にいる現実の弱い人々ではなく、いつのまにか「概念としての弱い人々」になっており、目の前の弱い人々が起こす様々な騒動はとりあえずカッコに入れ、「弱い人々=守るべき人々=誠実で正直な人々=打たれ弱い人々」的決めつけをを自然としている。

弱い人はさらに弱い人をたたく

弱い人はさらに弱い人をたたく。いじめる。
弱い人はもちろん嘘をつく(強い人も嘘をつく)。自分に有利になるよう様々な手を使う。

ドストエフスキーの小説に出てくる巧妙な官吏たちのように、人間というものは、愛するものを愛し、嫌いなものをだます。それは、ハンディをもっているもっていないに関わらず、だます。嘘をつく。

弱いものも強いものもそんなものであるが、「弱いものを守る」という思想が発動する時、我々はなぜか弱いものの汚さを捨象する。
そのあと、弱い者=美しい人=誠実な人的連想が形成される。

また、若い女であれば恋愛をし恋愛に巻き込まれる存在、子どもであれば嘘をつかず常に笑顔でいる存在等の紋切りイメージがそこにかぶさる。

「弱い人」という概念と、「女」と「子ども」という概念は、社会の中の弱めの存在というイメージでくくられる。そこに、弱い存在は「守るべき」存在だという妙な規範もかぶさり、瞬間にして我々の脳内で紋切り図式が描かれる。

女の死=恋愛破綻=誠実さの破綻=社会性のなさ……

等、政治性とは別の連想が続いていく。

■差別してはいけないというポリティカル・コレクトネスが、弱さの実像を覆い隠す

これら紋切りイメージの連動は、当事者たちのリアル(事実としてはいじめ、意味としては弱くもあり美しくもあるが汚くズルい面も当然ある)を単純にしてしまう。



人間は富裕者だろうが貧困者だろうが、女だろうが子どもだろうがそんな単純なものではない。

またそれらリアルを描くことをメディアたち(多くは中流層出身者たち)は「自粛」する。
この自粛、その背景にある紋切り的イメージのつらなりが、残酷なことに、貧困やひきこもり若者たちの実像を隠す。

意図的に隠してはいない。
差別してはいけない、守らなければいけないというポリティカル・コレクトネスが、結果としては弱さの実像を覆い隠す。

遠慮と自粛と無難とリアルへの想像力のなさは、結果として階層的(中流以上)で職業的(メディアや古典的支援者)な暴力になっている