なぜレプリカントはブレードランナーを殺せなかったのか


■レプリカントはハリソン・フォードを最後に助けた

「ブレードランナー」の続編が公開され話題のようだが(そのうち見ます)、1作目で魅力的だったのは、ラストの大雨のロサンジェルス某ビルの上で、レプリカント(アンドロイド)のボスがハリソン・フォードを殺そうとしながら最後に助けたことだった。

火星(だったかな)での奴隷労働から逃れてきたレプリカントは、その年中に「寿命」(4年)が訪れる予定であり、最後の最後、ハリソン・フォードを見逃して静かに微笑みつつ死んだのであった。

レプリカントという「便利な存在」は、偽物の記憶を植え付けられ火星に奴隷労働に行き、一部は地球に脱走して自分の存在証明のため寿命の範囲内であがく。

逆に、自分がレプリカントというアイデンティティをもたないレプリカントは(たとえばハリソン・フォードとラストに逃亡する秘書)、自分は何者かという点で揺らぎ続ける。

印象的なのは、レプリカントが人間に組織的に反抗するのではなく、人間社会に「紛れ込もう」とする点だ。抑圧される少数グループが組織的に抑圧者と戦うのではなく、抑圧者の社会に紛れ込む。

それは4年という寿命も大きいのだろうが、僕にはその、反抗でなく紛れ込みというレプリカントの欲望がリアルに感じられた。

自分の個性を消去するほうが得策

社会に紛れ込むためには、自分の個性を消去するほうが得策だ。レプリカントというマイノリティ性を隠して生き抜くために、その個性を捨て去り、たとえば踊り子(ゾーラという脱走レプリカント)等の匿名職業キャラで生きていく。

ゾーラという名前よりは、「あの踊り子」というキャラがその社会では認められる。

真の名は消去され、印象的な踊り子キャラとしてそのレプリカントはロサンジェルスで生きており、皮肉なことにそのキャラ設定の証拠から、ゾーラ/踊り子はハリソン・フォードに殺される。


■弱さの概念化以前の、戦い

前回(差別してはいけないというポリティカル・コレクトネスが、弱さの実像を覆い隠す)引用したスピヴァク『サバルタンは語ることができるか』では、インドの最下層の男たちの妻たちには名前が与えられておらず、夫が罪を犯し処刑される際に、その名もなき妻たちも同時に処刑される慣習があることが指摘されている。

インドの最下層の妻たちが、社会に溶け込むために、反抗することはできず、また自分の名の捨象を選ぶこともない。それは結果として忘れられ、夫の付随物として扱われる。

レプリカントを便利な労働者/物として扱う人間は、人間社会内に紛れ込みたい欲望をもつレプリカントを、ブレードランナーを雇用して排除する。ここには、アンチ差別的ポリティカルコレクトネス議論は背景化されている。

社会に紛れ込みたいレプリカント、それを排除したい権力、権力に雇用されながらもレプリカントを愛するブレードランナー、そんなキャラたちが、うどんを食べたり眼の光彩を検査したり雨の中戦ったりしながら、ベタなコミュニケーションを繰り広げる。

弱さの実像は、弱さを概念化(レプリカントだったりひきこもりだったり虐待サバイバーだったり、その他多くのマイノリティ)する前の、戦いと無名と諦めと許し等々の中に潜んでいる。

弱い人を「支援」する人々は、レプリカントがブレードランナーをなぜ殺せなかったのか、いつも考える必要がある★

http://blog.goo.ne.jp/k-74/e/c8ec2b8175301c5a8f60c69590ea20edより