ギャンブル財源が福祉財源になる倫理


■人々は他者への批評をできるだけ抑える

いまはネット社会となり、『朝日ジャーナル』等が跋扈していた前世紀とは言論様相がだいぶ変わってきた。誰かの悪口は「批評」ではなく普通に悪口ととられ、あっけなく名誉毀損案件となる。

だから人々は他者への批評をできるだけ抑える傾向となっている。

ああなるほど、言論統制とは何も国家権力といった目に見えるかたちではなく、名誉毀損(お金による謝罪)を恐れる普通の人々から自由な言論を奪うことなのだと、ようやく僕は気づき始めている。

それと反比例するように、表現手段としてはネット技術が日々進化し、これまでは大都市にいなければできなかったような人々とのやりとりが、いまはどこにいても行なうことができる。
現にいま僕も、週末自宅の徳島県(平日は大阪)からさまざまなお仕事をメールしたりFacebookしたりfreee(会計ソフト)したりホームページ更新等している。

スタッフとのやりとりも、Facebookメッセンジャー等をフル回転させれば、よほどの案件以外はなめらかにすすんでいく。

という事情が一方ではあるので、息抜きのブログに向かった時、ついつい世の中の現象を辛口で書きたくなる。
それはインターネット2.0時代(ネット環境やSNSの拡大)には、インフラ充実と反比例するように不自由になってきた。

■ギャンブルで吸い取ったお金がフクシにまわる

某公営ギャンブルが財源になった某財団のことは、ネット2.0時代以前からある種タブーだった。

また、その財団財源をフル活用しているのが、日本の社会福祉法人たちで、この何となく歪んだ事実(ギャンブルで吸い取ったお金がフクシにまわる)は、倫理的には人々の感性をどこかで刺激するものの、現実に送迎ミニバンの車体にペインティングされているその財団ロゴを全国各地で見ると、

「まあ、国にできないことは、この手の財団がフォローする、それが社会ってもんかな」

と僕などはある種の諦めの境地に追いやられ、死んだ目でそのロゴを見つめてきたものだ。

が、時代は「ソーシャルセクターの時代」となり、特定非営利活動法人が5万団体を超え、一般社団や株式や従来の社福まで含めると、多くの人々が「ソーシャル」な組織で働いたりボランティアするようになった。

その功罪は僕は別のところで問い続けているものの(「劣化する支援」ほか〜おしゃれNPOの悪夢など)、現実としてNPOや社福は巨大某財団(民間寄付財源の5割以上を余裕で占めるという)の恩恵というか助けで成り立ち、送迎バスは今日も全国を走る。

■ビットコインにまつわる悲喜劇も似たようなもの

だから僕は、ギャンブル財源が福祉財源になっている事実を責めているのではない。それはいわゆるポリティカル・コレクトネスであり、タテマエと理想主義的過ぎる非難である。
行政が現実に財源を渋る時、ボートマニアのおっちゃんたちから吸い取った血汗涙金(ケッカンルイマネーと僕は呼んでいる)を、悪いので社会のお役に立てるという発想は案外僕は好きだ。

また、70年前のそもそものその財源が、戦争末期大陸で云々というゴルゴ13的噂話もまた僕は超大好きだ。

マネーとはそんなもの、この数種間のビットコインにまつわる悲喜劇も似たようなもので、そのうちの一部はいずれかは福祉財源とウィンウィンになっていくのかもしれない。

僕が問いたいのは、これらの誰もが感づいているくせに臭すぎるタブーとなっている事態に、誰も言及できないということだ。

これはむしろ、『朝日ジャーナル』が全盛だった70〜80年代の紙媒体のほうができた(『噂の真相』とか)。その言論の貧困が今は「2ちゃんねる」とナショナリズムに向かっていると思われるが、それらはないよりはマシだとも思う。

倫理というと大げさだが、人々が名誉毀損を恐れるあまり、その何でもできるネット手法をアフェリエイト等の無難な儲け話にしか使わないのが、この国の倫理と哲学の弱さを露呈していて脱力する。

話はずれているかもしれないが、実は問われているのは、大学の倫理学者だと僕は思う。(^^)

淡路島から、鳴門競艇場のある徳島へ。
ボートマニアの聖地+血と汗と涙の地。