素朴な平等主義とタコツボ社会がヒューマニズムの「暴力」を生む


■「平等に」接すればいい+仲間たちの声を聞いて

具体名を書くことには意味がないほど、タイトルで書いたメカニズムは共通している現象のようにこの頃見えてきたので、できるだけ一般化して書いてみる。

貧困層の中の最貧困層、そしてそこに含まれている子どもたちには、なかなか学習支援や子ども食堂は届かない。

このことは、学習支援や子ども食堂の現場で実際奮闘されている方々も認識されているようだ。
そうした方々に共通することは以下の2つに収斂するようだ。

1.顕在層(学習支援や子ども食堂でアウトリーチできる人々←ここで「貧困エリート」といった言葉を使ってしまうと、感情的反発を巻き起こし議論が混乱するようなのでここでは使わない)のほかに、潜在的当事者/真の当事者/サバルタン的当事者がいることは理解できるが、その潜在層に執着するあまり目の前の顕在層を看過しては元も子もない。
いずれの層(健在層も潜在層も)「平等に」接すればいい。ことは単純なのでは?

2.現場は必死に取り組んでいる。そうした現場を見ずに「知識人」的立場から語ることほど無意味なものはない。現場の中、仲間たちの声を聞いてほしい。

この2つは、スピヴァクが『サバルタンは語ることができるか』の中でも繰り返し語る(だが晦渋な文章のため何回も読んで何となく意味が推察される)、「サバルタンが語ることのできない」典型的理由たちだ。

■潜在層にはいつか誰か(できれば自分たちが)が

これら1と2は、前回の当欄(「劣化する支援」とは〜代表、代弁、表象のマジック)で触れた、4つのリプレゼンテーションのうち、主としてはじめの2つと少し被る。


・リプレゼンテーション①フーコーとドゥルーズに見られる、「透明な存在」としてマイノリティを語る/代弁する人々(知識階層に多い。一般支援者にも見られる)。自分の立ち位置はさておき、「弱い人々」としてのマイノリティを一方的に語る。

・リプレゼンテーション②マイノリティの中でも比較的見えやすい層。『サバルタン〜』では、地方の名士が事例化されている。現代日本では、僕が「貧困エリート」と表象する、比較的地縁があり子ども食堂や学習支援とつながることのできる人々。


冒頭1.の「顕在層も潜在層も平等に」が引用部リプレゼンテーション②と、2.の「知識人」批判が引用部リプレゼンテーション①と連動している。

1.「顕在層も潜在層も平等に」は、19世紀インドでは地方名士、現在の日本の経済的下流層においては地縁や人脈のある貧困層と重なる。

これらは、イギリス人(19世紀インド)や、NPO・社福等ソーシャルセクター/ベンチャー(現代日本)と比較的つながりやすく、また数も相当数存在するため、貧困支援においては「貧困支援という仕組みが十分機能している」と錯覚させる。

だから、顕在層と日夜接する現場支援者にとっては、これ以上求められても困るという感情的反発を巻き起こすと同時に、理屈や事実で潜在層の問題をたとえ説明されたとしても、目の前の顕在層は実際支援できているのだから、「潜在層にはいつか誰か(できれば自分たちが)が支援を行なう」という信念を抱いている。

この信念は立派なことではあるが、皮肉なことに、顕在層とアウトリーチできている人々(NPO)を、潜在層の多くは決して近づけない。
それだけ最貧困層にいる人々(虐待サバイバーやいじめ被害者と重なる)は、顕在化貧困層や中流支援者に疑いを持っている。

それは、真の当事者たちの歴史や、家族背景や、虐待等の結果ものごとに対しての理解力の低下等さまざまな要因があると想像できるが、それらの複合体が「サバルタン」であり、中流支援層とはじめから最後まで「出会えない」ことが、真の貧困当事者の定義でもある。

だから、顕在化貧困層も潜在化貧困層も同じ人間なのだから、平等に接すればいい、というのは、まさにクラス/階級の違う人々の価値であり、真の貧困層はそうした非現実的な価値を持つ人々を遠ざける。

この「みんな平等に」価値は、J.デリダがもし生きていたとすると、根源的「暴力」のひとつに含めるかもしれない。平等という善意をもとにサバルタン化のメカニズムを看過し、「今はムリだがいつか誰かが支援できる」と素朴に信じ続け後回しにしていくそのメカニズムこそが、「もつ者がもたない者に対して自然体で行なう」排除の姿勢、ポストモダンな哲学者から見ると「根源的暴力のひとつ」になるのかもしれない。

■「外」からの批評に弱い

2の「透明な知識人」批判は、スピヴァクがフーコーやドゥルーズに対して行なった辛辣な批判だ。
どうやら一部の人々は、僕が「おいしい立場」から「透明な存在」となって現場を批判するように見えるらしい。

そうした時、批判する人々は「とにかく自分たちの現場や仲間をみてほしい、出会ってほしい」という。これは最近たくさんの人々から言われるので、かなり一般化できる視点だと僕は結論した。

20代の医療問題を扱う編集者時代にも僕は同じようなことをよく指摘されていた。だから自分が支援者になって何かを発言する時は、「必ず『現場』をもって、現場で感じた事柄を、諸理論はカッコに入れて自分が振り絞る言葉を中心に発信しよう」と密かに誓った。

その誓いがその後、鷲田清一先生の「臨床哲学」に僕を走らせた。今も時々スピヴァク等の権威にすがるものの、それでも基本的には「自分のことば」が土台の土台にある。

その自分のことばは常に揺れ続けるから一貫性もないのだが、これが「透明な立場」からの発言ではなく、現場で沸き起こる事象をなんとか言葉でくくることだと自分に言い聞かせている。

一方で僕が感じることは、貧困問題ほかの社会問題に意識的に向き合うNPOたちが、組織内においても「業界」内においても、なんとなく「内」だけを見ており、「外」からの批評(無責任な批判ではなく、理論的根拠のある批評)に少し弱いことだ。

黎明期の業界といってしまえばそれまでなのだが、現代日本の最大問題の1つである「貧困」を担う人々が、批評に弱いことはそのジャンルの質的低下につながる。

一部の学者層から出てきた、「実は単なる勉強不足なのでは?」という疑いを打破するためにも、タコツボ内にとどまることなく、根源的視点(真の貧困層の潜在化メカニズム等)からの発信を期待している。知識不足、勉強不足などと身も蓋もない指摘をされないためにも😊


何年か前、大阪の高校内居場所カフェの生徒たちに書いてもらった「メッセージ」のひとつ。
潜在化の顕在化😊