弱いものが弱いものを互いに助け合う〜劣化する支援7報告


■いつの間にか深く深く語り合った30分

昨日「劣化する支援@大阪ココルーム」が開催され、いつもどおり大盛況の中終了することができた。

ただ、今回は少し違った雰囲気になった。
特に終盤の30分間、ある意味「哲学的」なコミュニケーションがそこに出現した。

出席者はそれぞれ、自分の話をする。職場の風景、専門家同士の風景、「保護者」としての風景。
それぞれ、リアリティーがある。

あるが、そうしたそれぞれの「現場」の語りは、何かと接合されている。

その何かは、「誰かと誰かが出会いコミュニケーションすることで、何か化学反応が起こる」的なもの、僕も説明するのが非常に難しいが、単なる「支援者がクライエントを支援する」「ピアサポートする」といった紋切り的コミュニケーションではない、何か違う次元の話だ。

誰かがなにかの集団に属していく時、あるいは何かの社会に包摂されていく時、あるいはそれは「家族」的小集団でも構わないが、人が人々に受け入れられる時に、受け入れる側の雰囲気、受け入れてもらう側の態度と気分について、いつの間にか深く深く語り合った30分になった。

■人間は弱い

人間は当たり前だが弱い。
ブルーハーツの歌を聞くまでもなく(「人にやさしく」)、もろく弱くけれども実はどこか強く、もろくてそれでも少し強い、全体としては「弱い」としか言えない存在が人間である。

この弱さを受け入れてない人々は「劣化」している。

昨日の「劣化する支援」は、基本的に現在のNPOの「黎明期以前」を確かめるために行なった集まりだ。
それが7回目となり、これまでの単に劣化を指摘するポジションが変化し始めた。

我々にとって有効な「支援」とは何か、いまある以上の「コミュニケーション」とは何か、ということが話し合われるようになってきた。

その、「次の時代のコミュニケーション」のキーワードこそが「弱さ」なのではないかと、昨夜は誰が提示したわけでもなく、参加者がそれぞれの心の領域で感じたのだと思う。

弱さが弱さのそばにいる、弱さ同士で話をする、弱さ同士で楽器を奏で歌をうたう。
その「弱さ」たちは、患者やクライエントといった、支援・被支援関係に見られる権力関係ではない。

人そのものがもつ性質の根幹である「弱さ」を引き受けた人々のコミュニケーションだ。

■最大の収穫

まとめてしまうとそういうことなのだが、昨日の「劣化する支援7@大阪ココルーム」では誰もまとめることができず、それぞれコンパクトに語りながら、それぞれが「弱さ同士で支え合うこと」について語った。

つまり、「劣化する支援」の次の次元が、誰も意識することなく現れたように僕には思えた。

それは、専門家がクライエントを権力関係のなかで「支援」するのでもなく、人工的に形成されたグループの中で「当事者語り」するのでもなく、すべて弱い者たちが集まりその弱さについてユーモアも絡めながら同じ時をすごす、そんなコミュニケーションの時間だった。

劣化する支援を突き詰めたところには、新しいコミュニケーションが現れた。僕の人生の中でも、最大の収穫のひとつだ😊


雨上がりのココルームの庭