■存在の耐えられない軽さ
このグーグルブログのほうは主として「劣化する支援」系のことを書いているので、毎度同じ論調になる。たとえばこんな感じだ→ソーシャルな人々が貧困コアを隠蔽する。
だからワンパターンになるためできるだけ書くのを遠慮しているのだが、やはり定期的に怒りのようなものが湧いてくるため、そのガス抜きに書く。
この怒りは何も僕だけのものではなく、「劣化支援」に協力いただく大学の先生たちも同じらしい。
そこでいつも結論に出てくるのが、
1.おしゃれNPOたちの圧倒的知識不足
2.その、存在の耐えられない軽さ
3.ミドルクラスの弱さ
の3点だ。
その事業の軽さ(どうでもよさ=コア当事者に届かない感性の鈍さ)は、1からくるものだから、結局は2に集約され、それは3の結果だとも言えるから、すべては「階層社会におけるミドルクラス現象」と言えるのかもしれない。
ミドルクラスの若者が、それなりのせこいノブリス・オブリージュを発揮しようとすると、知識不足からくる事業の弱さとなり、階層断絶からくるコア当事者への無知となり、それらを無邪気に土台とする「野心」の発動となる。
■ノブリス・オブリージュ共同体
その結果、自分たちの「軽い野望」(有名になりたい、組織を拡大したい等)のために寄付や学生を利用する。
たいしたことない事業を自分では社会的に意味があると信じ切っているため、真剣に寄付を乞う。
まるでその事業に寄付することが「善」のような、無邪気な倫理観もそこにくっつけて、寄付を乞う。
そして、そこに集まった額=事業の正しさだと解釈してしまう。
事実は、どちらかというと、「ソーシャルグッドを実行できないミドル+アッパークラス」が、わかりやすい(広告的に上手な)「実行できるミドルクラス」へと金を流しているだけのように僕には思える。
実行できない中上流層にとって、実行できる中流層はある種輝いて見える。
その「実行」の中身に、コア当事者層が入っていなくても、寄付する側にはそれはわからない。
また、寄付される側も、コア当事者を実際には知らないから、これら、「もってる」人々が形成するノブリス・オブリージュ共同体は、まったくの善意で、結果としてコア当事者を潜在化(無視)していく。
■その無意識的無視(コア当事者に対する)に傷つくから?
コア当事者とは、僕が以下のYahoo!記事等でしつこくふれる、「日本のサバルタンたち」だ。
彼女ら彼らは、おしゃれNPOの存在は知ってはいるが、無視する。それは、おしゃれNPOたちの「軽さ」を馬鹿にしているというのもあるが、僕が推測するには、その無意識的無視(コア当事者に対する)に傷つくからではないか、と感じている。
あれほどあっけらかんと自分たちを無視して、
高校内で無邪気に自分語り的事業を展開する、
本当の貧困世帯ではない家庭に学習クーポンをばらまく、
本当の貧困世帯でない多くの人々対象に子ども食堂を提供する、
さらっとその地域にやってきて、さらっと自分たちと出会えると信じ切っている、
事業とは脈絡のない「マラソン寄付」募集する、
事業とは脈絡のない「マラソン寄付」募集する、
等々、あげはじめたらキリがないが、その善意の無邪気さが、コア当事者を、「日本のサバルタン」たちをバカにしている。
それは、児童虐待のアフターケア当事者が、役所の窓口に抱く怒りにも若干隣接する、ノブリスな差別とも言ってもいい★
今年のとなりカフェでの七夕イベント。 「友だちが幸せになりますように」等の願いは、切なく重い。 |