「つながり」という名の劣化〜ソーシャルセクターの沈黙の暴力


■あらたな展開

当欄で前回とりあげた「マンスプレイニング事件」(K氏によるN氏へのネットハラスメントマンスプレイニングという「劣化」〜それは内部から発火した)はあらたな展開を見せ始めている。

それは、
1.法学者のK教授による曖昧なコメントにN氏が傷つく
2.ソーシャルセクター界隈のほとんどでこの事件は議論されていない。むしろ意図的に思えるほど「沈黙」されている

1.は、N氏自身が長文のコメントを発表し、K教授的ありようの残酷さを指摘する(7月9日13:22コメント)。このK教授的ありようは(問題が一般化できると思うので、関係者をあえてイニシャルにしてしています)、G.スピヴァクが『サバルタンは語ることができるか』1章で徹底批判した、ドゥルーズやフーコー的立ち位置である「透明性」(同書p28)そのものであると僕は思う。

スピヴァクの記述は難解なので僕なりに解説してみると、K氏とN氏のトラブルの具体性を上手にはぐらかし、「支援の最前線にいる人(N氏)は時にその言葉も先鋭的になる」的な、問題を被害者側の状況に集約するような記述をしている。K教授のトラブル鎮火(N氏の受けた傷つきの曖昧化)行為そのものが、この問題がもつマンスプレイニング的権力構造や差別事象を覆い隠してしまう。

つまりは、N氏の傷つきを潜在化させてしまう。当事者が語ることができなくなってしまう。

■沈黙という暴力

すべてのソーシャルセクター関係者(たとえば新公益連盟の人々新公益連盟 加盟団体一覧)のブログやSNSをチェックしたわけではないが、知り合いのそれらをチェックした限りでは、今回の事件に言及したものはなかった(あれば教えてください)。

加害者K氏はすでに謝罪し、それがまたN氏を傷つけ反感を呼んでいるわけで、これら一連の動きは日々のネット発信をチェックしているであろうソーシャルセクター関係者であれば誰もが知る事態のはずだ。

それが、このことに言及しているのは、ソーシャルセクター関係者では、僕を含めて数名程度、僕以外はどちらかというとソーシャルセクター業界の前線とは少し距離を置いている人々ばかりだと思う。僕も、東京ではなく大阪で地道に活動している者だから、今回の事件に関してかなりの距離がある人々ばかりが発信している(僕はN氏もK氏も直接出会ってはいないしネット上の交流もない)。

ソーシャルセクターのまんなかにいる人々は、今回の事件に対してほぼ沈黙、黙殺しているのだ。

まんなかにいる人々は、新公益連盟の名簿を見てもわかるように、日々「社会を変えよう」と発信している人々だ。これらの人々が、ソーシャルセクター業界にとっては決定的転機になる可能性をもつ今回の事件に関して沈黙を守っている。しばらく沈黙していればやがて沈下するだろうと期待するように。

だがN氏は、当事者であるにもかかわらず、絞り出すようにして傷つく心をことばにしていく。その行為は驚異的でもある。基本的に、出来事の当事者/被害者である「サバルタン」は語れない。PTSDを招いた出来事そのものを、当事者は語ることができない。
が、N氏はその出来事と、現在進行系の思いを滔々と絞り出す。

それは痛々しいほどだが、K教授から受けた傷つきも含めて「語る」その姿に、僕は感銘を受けている。また、当事者にここまで語らせてしまう、一連の「システム」とはなんだろう、とも考え込んでしまった。

■「つながり」のデメリット

そのシステムとは、
【事件の加害者〜その事件に沈黙することで矮小化を図るソーシャルな人々〜曖昧なエールを送るK教授(著名法学者)のような「透明性」】

的連結だ。今回は、加害者K氏がシステムの中心人物だったため、また被害者N氏が振り絞りながらも言葉を現在進行系で「語る」ことができる人物だったため、ことが顕在化している。

僕は、このシステムは、おそらく「つながり」という理念により形成されていると読んでいる。

根源的には、「つながりはよいこと」という、ここ10年の価値が土台にある。この価値は今も大きく人々を縛っており、メリットとしては新しい事業をフットワークよく連携・構築できる。このメリットが、この10年間は目立っていた。

だが、今回の事件での人々の沈黙を見ると、むしろデメリットのほうが大きくなってきていると思える。

K氏に遠慮して批評すらできない。
この自浄作用のなさが、結果的にソーシャルセクター業界の未熟さ(つまり劣化以前の劣化)をパフォーマティブに表している。そして批評がタブー化されているため言葉が磨き上げられておらず、たまに出てくるK氏批判も単なる誹謗中傷の範囲となり、名誉毀損の対象となってしまう。

僕の知り合いがコメントしていたが、IT業界にしろ服飾業界にしろ、有名社長は常に批判と称賛にさらされる。ある意味、有名税としてこれらはあり、批判の中には秀逸な批評が含まれ、それがIT業界等の進歩に寄与していくことになる。

ソーシャルセクターにはこうした批評がない。それどころか、沈黙の嵐だ。この背景には、「つながり」という理念が横たわっているように思う。いま、「つながり」自体を批評する時だ。そうでないと、ソーシャルセクター業界は黎明期のまま衰退していくように思える。