その事業は効率化優先と知っているのか?〜ソーシャルインパクト評価


「ソーシャルインパクト評価」がもつ意味

まだ僕も勉強中なので論理的に筋道立てて追求はできないのだが、「ソーシャルインパクトボンド」や「ソーシャルインパクト評価」といったことばたちがもつ意味が徐々にわかってきた。

そして、それを担う大手NPOたちが、いかにその新自由主義的価値の「尖兵」になっていることも。

社会的投資という意味のソーシャルインパクトは、2010年、ブレア政権の実験に挫折したイギリスから生まれたという。
つまりは、公的負担を極力減らした新自由主義の最新版としてそれは現れた。

民間から投資を募り、そこで集まったカネを社会貢献に回し、複数のステークホルダーがその事業の部分を受け持ち、数字として「結果」を評価し、現れた結果に対して行政は投資者たちにリターンする。

これにより、公的財政のスリム化と、行政の肥大化を防ぐ。
まずは民間に社会事業に対して投資してもらうことで行政はリスクを避け、事業内の諸部分を複数の民間に委ねることで行政のコストを低減する。

つまりは、財政と組織のスリム化、言い換えると「小さな政府」の実践、それがソーシャルインパクトボンド/評価の実態のようだ。

貧困コア層や高齢ひきこもりは、ソーシャルインパクトボンドには適さない

日本の貧困支援事業の代表的なもの、A市やB区などはソーシャルインパクトボンドのかたちとしてはトリッキーかもしれないが(特にふるさと納税を使ったB区)、行政予算ではなく民間資金(N財団)や「ふるさと納税」を使い、そのサービスシステムは複数のソーシャルセクターが噛むという点で、それらは十分ソーシャルインパクトボンドだともいえる。

問題は、ソーシャルインパクトボンドが向かう事業の中に、数字としてつかみやすいヘルスケア(がん検診等)以外に、数字としてはつかみにくいであろう貧困支援や若者の就労支援が組み込まれていることだ。

当欄でもたびたび指摘するように、真の当事者(生保中心の貧困コアや高齢ひきこもり)はキャッチしにくい。

これは僕だけの考えかなあと思っていると、ソーシャルインパクトボンドに批判的な海外の研究者の意見もあるようだ(「SIBに対する批判的考察」を考察する)。

ここで言われる、

「4.成果連動の弊害」

は、僕がたびたび指摘する「当事者は語れない」を経営的用語に言い換えているようにも思える。それは以下のように続く。

「成果指標に基づく支払い契約は、成果指標の選定や測定、因果関係の特定、成果が出にくい受益者が後回しにされてしまう懸念など、いくつもの問題を引き起こす。加えて、将来の経費削減効果は、短期的な成果指標の達成ではなく、長期にわたる努力によってもたらされるものである」

成果が出にくい受益者、日本にこれを当てはめると、貧困コア層や高齢ひきこもりは、ソーシャルインパクトボンドには適さない。
このことをこの論文の執筆者は訴えているようだ。

全体の幸福が少しでも底上げできればよい

だが、ソーシャルインパクトボンドは新自由主義的政策なので、「成果が出にくい受益者」が潜在化しようがどうでもよい。
それは功利主義的な、最大多数の最大幸福が実現できればいいので、貧困支援であれば、下流層の上澄み部分が就労支援を受けることができればオッケーなのだ。

地域サポートステーションでいうと、ニート数60万人分の数パーセントである1.4万人程度の実績でも十分オッケーだ。
富裕区のB区では数百食の配布ができればオッケーだし、貧困層を多数含むA市においても、そこでの生活保護層がメインにならなくともオッケーだ。

あきらかになる数値(ソーシャルインパクト評価)を通して、全体の幸福が少しでも底上げできればよい。
その過程で、行政予算を節約でき、人員配置も複数の民間ステークホルダーが予算を分配できればよい。

予算の分配側は、これで万々歳だ。
虐待サバイバーや高齢ひきこもりといった支援が困難な層はソーシャルインパクト評価にはなかなか引っかからない。限りなくフリーターに近いニート層や、子ども食堂に来ることができる下流上部層とアウトリーチできれば十分なのだ。

それが、ソーシャルインパクトボンドにとっては、全体の幸福ということになる。

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