「謝罪と隠蔽」の暴力〜マンスプレイニングのパターン


■マンスプレイニングのパターン

また昨夜も新たな「マンスプレイニング」事件が生じたようだ。
個別の経緯はここではあえて書かない。ここでは、マンスプレイニング(男性ジェンダーが女性ジェンダーに言葉と態度で圧迫し、その背景には明確な女性蔑視があること)事象の一般的な経過について書いてみる。

僕がこれまで接したマンスプレイニングの実態は、まずは以下のパターンになる。

①柔和な接近と、突然の「差別コード」の発火
②圧迫
③圧迫の反復(かばったり言い訳したりとにかくいろいろある)
④謝罪(ここに「ホモソーシャル」仲間が同意していく)
⑤隠蔽(永遠に続く)

マンスプレイニング・パターンはこれほど単純ではなく、たとえば以下のものもある。

①なにがしかの(男性ジェンダーからの)抗議
②その抗議の背景にある(男性ジェンダーの)バイアスの発見
③(男性ジェンダーの)バイアス隠しのための男性ジェンダーからの圧迫
④圧迫の反復
⑤謝罪
⑥隠蔽

ほかにもいくつかのパターンがあるだろうが、これら明白なバイアス/偏見/差別に対しては、「昭和」的な抗議が有効だ。

その意味では、上野千鶴子氏的「昭和フェミニズム」はまだ古びていない。マンスプレイニング的ティピカルなバイアス(典型的偏見)に対しては、昭和フェミニズム的手法はまだまだ有効だと思う(上野氏的昭和フェミニズムの限界になついては→虚偽DVは、「昭和フェミニズム」から生まれた)。

謝罪は、非常に便利な態度と言葉

一連のパターンのなかでは、僕は、⑤と⑥が最も問題だと思う。

主として言葉であやまることは(涙や平身低頭等の行為にも現れる)態度としては謝罪を意味するのだろうが、そうした言語と態度を表することで、

「ここでこのお話はストップしてください」

というパフォーマティブな意味が生じる。
とりあえず言葉で謝っておけば、謝る主体が持つバイアスや差別を隠蔽することができる。

つまり、謝罪は、非常に便利な態度と言葉だ。

その便利さが、それ以降の可能性を閉ざすことにもつながる。
それ以降の可能性とは、被害にあった人々と地道にコミュニケーションを積み重ね、差別した側が新たな価値観を徐々に見出していくという場面だ。

安易な謝罪は、差別する側の硬い偏見を溶かすことをストップさせる。意味をともわない、発声にとどまる謝罪は、謝罪する側のバイアスを隠蔽してしまう。
その隠蔽感が、差別された側には露骨に伝わってしまう。

謝られても謝られても消え去らない実感

このつらなりが、結果として⑥の隠蔽になっていく。

被害者は追求し、加害者は「わかりました、すみません」と謝罪しながらも実態としては互いの関係性はあまり変わらないという事態は、こうした「謝罪と隠蔽」のメカニズムから生じる。

謝罪されている側からすれば、何か腑に落ちない。けれども、言語的意味合いの中ではそれはしっかり謝罪されている。

私が傷つけました、すみません。

と、謝罪する側は臆面もなく謝るが、謝罪される側にとってはそこには「実感」を感じ取れないため、しこりのようなものが残る。

その、謝られても謝られても消え去らない実感とはなんだろうか。