マスクの意味は、洗脳と組織



先日、Facebookに以下のようなメモを書いてみた。

そうすると、毎日の僕の「ノーマスク」生活もだいぶ楽になった。ノーマスクも、社会に対していつも気をつかうのだ。

ここでは少しだけそのメモを膨らませてみよう。

■洗脳と組織

現在マスクする人は、

①新コロナに洗脳された人たち(原因はテレビ中心生活や医療現場で翻弄されている等、複合している)

②「組織人間」である(多くの組織が国交省等の指令を守っている〈ただし厚労省や環境省のマスク不要指令は無視〉+その「空気」を読んでいる)

③その混合形

の3種類に分かれる。朝の満員電車に乗る人は基本②なので、マスクだらけなのは仕方がない。

学生服/制服やネクタイなしでの居心地の悪さ

この点で、今のマスクは学校の「学生服/制服」に似ている。

新コロナ対策に毎日着用しているマスクを制服に代えて考えてみよう。

そして、「制服を着なくても〈広義では「学校に行かなくても〉青春や若者時代は謳歌できる」と想像してみよう。

残念ながら、制服を着ずに毎日私服で登校しても、学校では不愉快な気持ちになるばかりだ。
私服で登校し学校文化を享受することには、未だ社会的合意はない。

マスクは、もはや社会規範

さすがの僕も、学校時代は制服は着ていた。

この「制服」を「ネクタイ」に代えてもいい。学生服/制服やネクタイなしでは、その制服とネクタイを前提とする管理社会では居心地が悪くなる。

その制服やネクタイがいかに意味不明のものであったとしても、受け入れなければその社会からは排除される。

現在の「マスク」は、これら制服とネクタイとほぼ同義だと思う(新コロナ洗脳とそのバカバカしさについては、永江一石氏のブログ参照なぜか、新型コロナで誰も重症化しなくなっているをデータで見る)。

つまりマスクは、もはや社会規範の問題に移行している。

社会規範は僕の研究対象でもある。3月の頃からなぜかこの問題に惹かれていた理由がわかり、安心している★