あなたには生きていてほしい〜俳優M.Hの自死と宇多田ヒカルの「あなた」

■「花束を君に」の暗い色彩

当欄でもだいぶ前に触れたが、宇多田ヒカルは、母の藤圭子の死(自死)に関して、まずは「花束を君に」を書いた。
それに関して、僕はこんな記事を書いた(花束は「生者」に贈られている~宇多田ヒカルと母)。

宇多田の母の藤圭子の自死に関して、宇多田は「花束」を死者の母に送っているが、同時に、死者の側からも生者に対して花が送られているのではないか、という哲学的なエッセイだった。

花の贈与とは、つまりは「あなたは生きなさい」という死者(母)からのメッセージだということだ。花という生命のメタファーが、死者である藤圭子から生者である宇多田ヒカルに対して送られているのではないか、というエッセイだった。

その後宇多田は、2018年の「あなた」や新曲「誰にも言わない」において、死者(母)との関係性を執拗に追い、同時に、そこで歌われる「あなた」や「君」は母という露骨な死者から、従来の恋人全般や自分の子どもに対してのメッセージへと変化しつつある。

「花束を君に」の暗い色彩が、徐々に自分の子どもへのメッセージや、ラブソング一般へと変化しつつある。誰が聞いても明らかにわかったその歌の対象(自死した母)から、子どもという未来の象徴や恋人という普遍的な関係性へと移行しつつある。

■あなたがいなくなるとわたしは寂しい

宇多田の母は自死した。そして、数週間前、某有名俳優M.Hも自死した。

若者に与える影響は、今回のM.Hの自死が何百倍もの威力があるかもしれない。古くは岡田有希子や尾崎豊の事例を持ち出さずとも、そのインパクトは絶大だ。

だから、その死に惹かれてしまう思春期・青年期の思いは僕にはどうしようもできない。僕自身、思春期から青年期の頃、自死に憧れ、たとえばJ.D.サリンジャーの一連の小説を毎日読みふけっていた。

出口のない毎日に押しつぶされそうになっている時、「死」だけが思春期・青年期の「わたし/僕」を救ってくれる。

宇多田の曲は、そうしたゆるくて甘美な死に対して若干のエールを与えると同時に(決して自死の事実を否定しない歌)、消えてしまうその存在に対して圧倒的な寂寥の思いを提示する。

あなたがいなくなるとわたしは寂しい。

そんな感じで、宇多田は「目の前からいなくなってしまう人」に対して寂寥の辞を述べる。

■一方的なパッションこそが、自死

10代は(青年期の20才前後も含めて)、残される人のそんな寂しさに思いを馳せることができない。

自死とは、そんな他者の思いがわからない象徴的な行動を行なう人のことだから仕方がない。自死する人は、残される人の生涯に渡るPTSDのことなど考える余裕もなく死んでいく。その、一方的な行為こそが、自死だとも言える。

自死とは、究極的なコミュニケーションのパッション(哲学的な意味において)でもある。「死んでいくわたし」に対して寄せられるたくさんの他者の思いを、死という絶対的切断で切り離す。

自死とは、死んでいく人の思いはさておき(死んでいく人は鬱状態に閉じ込められているが)、とにかく「あちら側に生きたい/この生を終わらせたい」という情熱のことでもある。

宇多田は「花束」を渡したり手放したりしながら死んだしまった「あなた」との距離を、この5年間ずっとずっと測り続けている。

残された人とは、そういうものだ。

死んだしまった「あなた」とは私にとって誰か。私は、あなたとすごしたあの時間をどう捉えたらいいのか。残された人は、残された人の人生がある間、ずっとそのことを考えることになってしまう。

支援者である僕自身、いくつかの自死にこれまで接してきたが、残された人々(被支援者である若者の親御さん、時に僕自身)は死ぬまで「あなたと過ごしたあの時間は私にとって何だったのか」を考えている。

それだけ、残された人々の人生にその自死してしまった人は「刻印」する。だから宇多田ヒカルは、母親が自死したあと5年以上いまもそのことを歌い続けているし、彼女が死ぬまでそれは表現のテーマだろう。

わたしとママ(「あなた」)が過ごしたあの時間は何だったのか。

俳優M.Hの近くに宇多田的表現者がいるかどうかは知らない。けれども、M.Hが残した表情・声・姿等は、永遠に我々の心を刻み続けるだろう。

だからこそ、そのM.Hの死と「あなたの死」は違う。

と、思春期や青年期の子どもや若者(具体的な「あなた」)のまわりにいる大人は、必死になって「あなた」に対して伝える必要がある。

「あなた」には生きていてほしい、と。