謝る時、男性ジェンターはなぜ家族の話をするのだろうか〜駒崎氏の再謝罪


■当事者が語ることは、自らの命を少しずつ削っている

仁藤夢乃氏のFacebookタイムラインで、当欄でも「マンスプレイニング事件」としてとりあげた(「つながり」という名の劣化〜ソーシャルセクターの沈黙の暴力)駒崎氏が再び謝罪したと報告されている。

仁藤氏のタイムラインは、被害当事者としてギリギリの線で語る(仁藤夢乃氏タイムライン 7/14 13:00頃)。

ポストコロニアル哲学『サバルタンは語ることができるか』が人生の指針の僕としては、本来語れないはずの当事者(サバルタン)である仁藤氏が、事件の加害者である駒崎氏が発信するたびに自らも「語る」この事象はありえないことだ。

このことから仁藤氏は、「サバルタンは語ることができるかもしれない」という新しい局面を示してくれている。またこの点で、毎回称賛と心配(やはりこの語りは心の体力を奪うはずだ)と敬愛の念を抱く。
当事者が語ることは、自らの命を少しずつ削っているようなものだ。

■「事件後の反省姿勢」とあまりに重なる

この仁藤氏コメントでも引用されている駒崎氏の二度目の謝罪文を僕も読んだみた(私の発信についての心からの反省とお詫び)。

この再謝罪については、今日のFacebookタイムラインで僕のお友達の何人かの方々も批判的に語っている。
僕は、この謝罪文、特に今回の二度目の謝罪文はある種の「ケース」を示されているようで、頭の中が思わず支援者モードに変換する自分を抑えることができなかった。

なぜ、「自分の幼少期」の話をするのだろうか。なぜ、自分の「母」の話をするのだろうか。

こうした、自分の子どもの頃の苦労話をすることが、現在の権力者である自分の行為の何かの免罪符になるであろうと、どういう心的メカニズムが誘導するのだろうか。

今回の二度目の謝罪文を受けた仁藤氏のコメントが前回よりもだいぶ冷静なのは、僕の推察ではあるが、僕と同様、ある意味「びっくりした」のではないだろうか。

何にびっくりしたのかというと、共依存オトコ、DVオトコたちの語る「事件後の反省姿勢」とあまりに重なること、である。

■その行為そのものが権力

このあたりの心理メカニズムは、この分野の専門書を参照していただければうれしいです。

ただ、ソーシャルセクターの雄である駒崎氏、いろいろ批判はあるとはいえ、独自のアドボカシーでいくつもの事業を打ち立て、最近では休眠基金などの目新しい財源を発見したり、問題山積だとしても例の文京区「子ども宅食」などの貧困支援に乗り出す駒崎氏の内面が、上の謝罪文2に現れるようなティピカルなものだったとは、それはびっくりする。

実は、今回の駒崎氏母親エピソードの一部は、駒崎氏の初期の単行本をリアルタイムで(当時は僕も応援していた)読んで、僕はある程度知っていた。

が、今回の仁藤氏からの自らを賭けた問いかけに対して出てきたのが、これだった。

これを誠実と思えてしまうのが、男性ジェンダーであり、権力(パワー)とパターナリズム(過剰な博愛主義)とジェンターバイアス(偏見)が混在した、「オトコ」の典型的あり方だ。

僕も含めて誰もがこうした典型例ではあるものの、だからこそ自らの暴力性に敏感になる。そしてだからこそ、自らは現実事業のオモテに立つことに慎重になり、スーパーバイズだったりメタな批評だったりと、権力からできだけズレる行為を模索する。

これらをまったく意識せず、あまりにティピカルに無邪気に、自らは誠実だと思い実はその行為そのものが権力(上から目線)だと気づいていない今回の事象は、かなり一般性をもつので、あえてブログ記事化しました😊